たまたま関係ない目的でネットサーフィン中に『「百合星人ナオコサン」に見る、失われる幼女と世界の幻影』を読んで、興味を持った本書。
その結果は大当たりです。
大笑いながら読みました。
いわれなき「ロリコンという偏見」の時代が甦る §
この作品で執拗に語られるのは、紛れもなく百合ではなく「幼女が好き」というロリコン趣味のあけすけな告白です。
まず、この時点で私には懐かしい感じがありました。
オタク(おたく)黎明期に、オタク=ロリコンという偏見が常につきまとっていたのは事実です。実際、美少女漫画雑誌はロリコン雑誌と称されることが珍しくもなかったわけです。
実際、ラナよりモンスリー、クラリスより峰不二子が好きだという「大人の女性指向」は時代のムードの中で黙殺されていた感があります。(ちなみに、私はラナよりモンスリー、クラリスより峰不二子が好きだった)
一方で、疑いようもない幼女を愛好する指向がこの世界にあったことが事実で、たとえば内山亜紀の作品群にその一端が明らかに見えます。
そして、当然のことながら、それは犯罪的な側面を持ちます。フィクションの世界の中で完結せず、実際に行動に出てしまえば犯罪です。そういうスレスレの危うさがあったと思いますが、それがまたスリルであり、熱気だったと思います。
そういう時代の熱気に浸って生きてきた者からすれば、今時の美少女は今ひとつスリルが足りないという側面があります。オタクの対象となる少女の年齢層が明らかに上がっていて、犯罪性が薄れているからです。
この作品には、明らかにそのようにして失われたスリルが存在します。
これはもう、原点に回帰したような気持ちよさがありますね。
虚構としての幼女 §
しかし、話はまだ終わりません。
単なる幼女趣味であれば、私の趣味に合いません。(もっと年齢は高い方が好き)
この作品が鮮烈であるのは、実は作中で愛される「幼女」そのものが本当の「幼女」ではないからです。報酬をもらって幼女を演じるプロ幼女のような存在が当たり前のように平然と登場し、そのことが全く問題にされません。
この傾向は、初回特典の付録CDのC/W「百合星式おゆうぎうた」の歌詞に明瞭に出ています。
魔女の呪いで十万ン才、水につけると増殖し、当たり判定が小さく、全員で幼女生活50年と叫ぶ幼女達は、生身の現実の「幼女」であるはずがありません。
つまり、この作中で偏愛される幼女は現実の幼女ではありません。
幼女の姿をして、可愛さを演じる別の「何か」です。
その「何か」は、欲望を忠実に反映した存在であり、この作品が描くものは「幼女」ではなく「幼女に対する具現化された欲望」そのものです。
それは一種の自虐ネタとなり、笑いの対象となります。
絵として具現化してしまうと、自分の欲望はこのようなおかしなものになってしまう……という現実を提示することを通じて、それを笑い飛ばしてしまうのです。
実は、これも黎明期のオタク(おたく)を彷彿とさせる特徴です。なぜなら、当時のオタクにとって、自分たちがおかしいことは自覚されており、それは常に笑いのネタとして使われたからです。オタク文化が変な場所に迷い込まない健全性を持ち得たのは、その「自分自身を客観視して笑える精神の健全性」ゆえのことかもしれません。
しかし、この健全性は現在では希薄化していると感じます。世界に通用するオタク文化という誇張されたフィクションを信じ込み、自分たちはおかしくないと思い込んでしまった人達は珍しくないと感じます。
だからこそ、「自分自身を客観視して笑える精神の健全性」を持った作品は素晴らしいですね!
誰にお勧めなのか? §
幼女趣味ではないのに「いや~ね、あの人ロリコンよ」と影で言われながらレモンピープルを買っていたような人にお勧めかも。
って、レモンピープルの時代に生きていなかった人には何の助けにもならないアドバイスですが (笑
(ちなみに、クラリスやラナを使った上記の説明文も、今時のオタクには理解できない可能性が大)
CDはお勧め §
初回特典のCDはお勧めなので、興味のある人は早めにゲットだ!
オマケ §
たぶん、これを買うところを何も知らない人に見られると「いや~ね、あの人百合趣味よ」と言われます。
ちょっと知識のある人に見られると「いや~ね、あの人ロリコン(幼女趣味)よ」と言われます。
それぞれ、自分は分かっていると思っての発言でしょう。
しかし、実際は違うのです。
このギャップにニヤリとできる人向けのコミックかも。