前回までのあらすじ §
「百合星人ナオコサン」の構造 §
実は、妹ガンダムは百合星人ナオコサンとよく似た構造を持った作品だと言うことに気付きました。
では、百合星人ナオコサンの構造とは何か。
私が感想編で示したのは以下のような分析です。
- タイトルに「百合」と出ているにも関わらず、内容は「百合」ではない
- 内容の本質はあけすけな「幼女が好き」という告白である
- その幼女は、実は本物の幼女ではない
- 自らの欲望をストレートに具現化すると、おかしなものになる
- そのおかしさを客観的に把握し、笑い飛ばせるのは健全である
妹ガンダムも類似の構造を示します。
- タイトルに「妹」や「ガンダム」と出ているにも関わらず、内容は「妹」や「ガンダム」ではない
- 内容の本質はあけすけな「アニメ特撮ヒーローが好き」という告白である
- その「アニメ特撮ヒーロー」は、実は本物の「アニメ特撮ヒーロー」ではない
- 自らの欲望をストレートに具現化すると、おかしなものになる
- そのおかしさを客観的に把握し、笑い飛ばせるのは健全である
たぶん何を言っているのか分からない読者が過半数だと思うので、以下説明します。
タイトルに「妹」や「ガンダム」と出ているにも関わらず、内容は「妹」や「ガンダム」ではない §
妹が3人も出てきて、ガンダムネタがこれだけ炸裂しているにも関わらず、内容は……ではない、言い切るのは奇異に思えるでしょう。
しかし、読めば読むほど、この作品における妹やガンダムが薄い表層に過ぎないことが痛感されます。
まず、「妹」とは「兄または姉」が存在することによって相対的に出現する概念ですが、この作品に出てくる3人の妹のうち、実際に「兄」が登場するのはガンダムシスターただ一人に過ぎません。他の2人の「妹」にとって、「兄」とは台詞上に出現する存在に過ぎず、「妹」を突き動かすトラウマ以上のものになっていません。
そして、実は「ガンダム」の存在感も希薄です。一例として、レビル2世のエピソードを見てみましょう。レビル2世は、もちろんバビル2世のパロディです。ガンダムネタと、バビル2世ネタを合成することによって成立しているのがレビル2世です。しかし、この2つの元ネタの扱いは全く異なります。ガンダムのお約束はあっさり踏みにじられているのに対して、バビル2世のお約束は大切に頑なに守られているという相違があるのです。
たとえば、レビル2世は超能力が使えますが、レビル将軍はニュータイプではないか、あるいは微弱なニュータイプでしかありません。その息子が超能力を使えるというのは飛躍が多いと言えます。しかし、バビル2世は超能力者であり、バビル2世との整合性は高いと言えます。更に、いきない超能力でコンピュータに話しかけ、砂の中に埋まった基地(?)があるというのは、レビル将軍とは何の関係もない描写ですが、バビル2世という作品には忠実です。
つまり、このエピソードにおいて、骨格を構成しているのはバビル2世そのものであり、ガンダムはそれを包み込む薄い膜に過ぎないのです。
以前、アニメのケロロ軍曹を見ていて、「これはガンダムに偽装しながらウルトラセブンを描いた作品である」と思ったことがありますが、それと同様です。
この作品は、ガンダムに偽装しつつレインボーマンやバビル2世やウルトラマン80を描く作品だと言えます。(そうではないエピソードもありますが)
内容の本質はあけすけな「アニメ特撮ヒーローが好き」という告白である §
では、妹やガンダムが本質ではなく表層に過ぎないとすれば、これはいったい何を語っているのでしょう。
それは、本来ファーストガンダムがリアルさによって否定したはずのヒーローそのものではないかと思います。
ガンダムとは、ガンダム1機で戦争の勝敗が決まらない世界を描いています。
それに対して、レインボーマンやバビル2世は、一人のヒーローの活躍で日本や世界が救われるドラマを描きます。
両者はまるで水と油のように両立しないものです。
そして、この作者は、リアルな世界よりもヒーローが好きであることを、あけすけに告白してしまいます。
たとえば、ジオンを勝たせる手段が空手であり、奥義がドラゴンボールのカメハメ波や元気玉風であったり、何もない空間から意志の力だけでコロニーが落ちてきたりするのは、そのような告白そのものと言えるでしょう。
その「アニメ特撮ヒーロー」は、実は本物の「アニメ特撮ヒーロー」ではない §
しかし、熱意を込めてヒーローが好きであると語れば語るほど、それは本来のヒーローの姿から逸脱していきます。
結果として、ヒーローがヒーローを貫くと、それは異常で間抜けな存在に堕してしまいます。
たとえばレンポーマンが熱心に正義を語れば語るほど、彼の姿は異常な信念を暴力で押しつける異常者に見えてきます。そして、我々読者が感情移入する側のジオン信奉者の「妹」は、悪というレッテルを貼り付けられます。このパターンは、レンポーマンに限らず、レビル2世でも、ガンダムマン78でも繰り返されます。
本来悪くないはずの「妹=読者の私」を悪と決めつける異常者は、既に本来のヒーローではありません。
自らの欲望をストレートに具現化すると、おかしなものになる §
なぜ、ヒーローが本来のヒーローでなくなってしまうのでしょうか。
ここで描かれたヒーローとは、作者の、あるいは読者であるオタクが持つヒーローへの欲望をストレートに具現化したものと言えます。
つまり、ヒーローがおかしいのは、作者の、あるいは読者であるオタクの持つ精神性そのものの歪みの反映と見ることができます。
そのおかしさを客観的に把握し、笑い飛ばせるのは健全である §
ここで、精神性に歪みがあることを「悪い」と見なすのは誤りでしょう。
歪みを持っているのはけしてオタクだけではないし、おそらく矯正して直るものでもないでしょう。
それよりも、問題はいかにして自分が抱える歪みと向かい合うかです。
1つの方法は、歪みなど存在しないと居直って、私は正常で正しいと言い切ることです。
別の方法は、歪みを持つことの恐ろしさに震え、自分の殻の中に閉じこもることです。
しかし、どちらの方法も、結果として他人に迷惑を掛けるだけで、けして良い解決方法とは言えません。
もっと前向きで健全な選択は、歪みを持っていることを素直に認め、歪みに逆らえないことも素直に認め、その上で歪みのもたらし可笑しさを笑い飛ばして共存していくことでしょう。
そういう健全性が見られる点で、ナオコサンも、妹ガンダムも非常に気持ちよく読めますね。
もう1つの選択肢・古いネタとどう向き合うか §
この作品は、実は難しいのです。
なぜかといえば、主要なネタが圧倒的に古いからです。おそらく、ファーストガンダムをリアルタイムで見た世代でなければ分からないネタが多く、それは現在では少数派でしょう。
かといって、古狸なら良いのかというと、そうではありません。おそらくケロロ軍曹のモアが元ネタと思われる「1/1」や、ガンダムのカードビルダーといった新しい世代のネタも出てくるからです。
このような問題にどう対処すれば良いのか。
いっそ、分からないことは分からないと認め、詳しい人に聞いてみる……というのも良いと思います。
たとえば、レンポーマンって何? と質問すれば、あの凶悪な名曲「死ね死ね団のテーマ」を教えてもらって「なんだこりゃ」と驚けるかもしれません。いや本当に、これがゴールデンタイムの地上波VHFの電波に乗って放送されたのですから凄いでしょう?
庵野版ガンダムというネタも、DAICONフィルム版の「帰ってきたウルトラマン」を見せてもらうという面白い体験ができるかもしれません。これだけ凄い特撮映像を、まだろくなパソコンも無かった時代のアマチュアが作り上げたという驚異と、あまりにも衝撃的なウルトラマンの変身後の姿に開いた口がふさがらない……という体験ができるかもしれません。(しかも、そのウルトラマンを演じているのがエヴァンゲリオンの庵野監督本人なのだ!)
そういう面白い体験の契機の宝庫になるかもしれない可能性を秘めた作品と思えば、ディープ過ぎるネタが多いのも悪くないかもしれません。
オマケ・40禁の世界 §
さあさあ。ここからはもう40禁の世界だから子供達は帰ってね!
ここからは同世代の人にだけ語る感想です。意味分からない人への説明は無しね!
レンポーマンが「哀の戦士」というのが凄く良かったですね。これはアニメ版ですよ。しかも「愛」から「哀」への読み替えが、当時のムードをよく分かっているな……という感じで嬉しいですね。
ダッシュ1が、ルナツーの化身というのも良いです。1なのにツーというのは噛み合っていませんが、ダッシュ1が月の化身である以上、やはりルナツーであるべきですね。
それから、ダッシュ78(セブンティエイト)もナイスなアイデアです。こうやってダッシュセブンからガンダムにつなげられるとは!
そういう意味で、ウルトラマン80ネタのガンダムマン78もナイスなアイデアです。先生が変身するというのも含めて、これは良い味を出していますね。
(でも、ウルトラマン80は見たこと無いのが痛恨)
技のガンダリウム光線も、エメリウム光線っぽい名前でナイス。
レビル2世は、3つのしもべの中で、ポセイドンならぬホセイドンがいちばん受けましたね。リュウ・ホセイですよ。この巨体にあまりに似合っています。
意図的に書くのを避けましたが、ガンダム関係のネタにも良いのがありますね。
たっぷり堪能いたしました。
しかし本当に良いのは、悪と断じられ、正義の名によって踏みにじられる側の気持ちに立って作品を描いていることですね。
ありがとう、徳光さん!