PCホビイズムに関する文書は、おおむね1日1本程度のペースで書いて、メーリングリストの方に送っている。それらはメーリングリストのアーカイブで読むことができる。
以下の文書は、特にオータムマガジン上にも掲載してみることにする。
【企画】ベテランが寄ってたかって若者に限界ギリギリの修行をさせる『PC梁山泊』構想 §
2007年2月22日
PCホビイズム教祖(自称) 川俣 晶
● 前置き
当面PCホビイズムの活動で着手すべき企画の案はいくつかある。
1つは、マイナーなプログラム言語まで網羅して、様々な言語の面白いところを紹介する短い文章で構成された本を作ること。
1つは、Windows手品のやり方を集めた本。
1つは、PCホビイズムの雑談お茶会。(とりあえず、興味のある人達と会ってみる)
等々。
これらについては、それぞれ別途詳しく書く予定である。(が、成り行きで遅延していくばかりである)
しかし、ここではそれとは別に、『「面白い」という価値観だけでコーディングさせるのは無責任か?』を書きながら思いついた企画について書く。
● 若者に無茶で苦しい修行をさせるベテランとは?
『「面白い」という価値観だけでコーディングさせるのは無責任か?』の以下の部分を書いているときのことである。
では、ひ弱ではないプログラマになるためには、どうすれば良いのだろうか?
残念ながら人間とは自分が痛い目を見ないと理解できない生き物である。
それゆえに、罠にはまる体験を積み重ねるしかないだろう。
これを書いているときに、1つのアニメ作品を連想した。
史上最強の弟子 ケンイチ
http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/kenichi/
最近見ているアニメの数はかなり少ない。
しかし、この作品は特に気に入っていて、毎週見ている(※)。
※ 他に家庭教師ヒットマンREBORN!も気に入っている。縁もゆかりもなければ技術力も一定ではない者達が集まって、1つのまとまりのある集団を形成するお手本として、REBORN!の主人公の周りに集まる「ファミリー」は1つのモデルになりうるだろう)
さて、このケンイチという作品は、一言で言えばひ弱な少年が格闘技の修行を通じて強くなっていくという良くある内容である。
しかし、この作品の持ち味は普通の少年の成長物語とは明確に異なっている。決定的な相違点は、弟子ではなく師匠にある。
この作品の師匠は、以下の2つの点で特異的である。
・全く異なる技能を持つ複数の師匠がいる。彼らは梁山泊という道場にいて、交互に交代で弟子の指導を行う
・これらの師匠達は、あまりにも達人の域に達しすぎて世間から浮いている (だから貧乏であり、梁山泊に身を寄せ合って暮らしている)
このような状況であるから、師匠達はたった一人の弟子であるケンイチを構いたがる。しかし、単にベタベタとつきまとう訳ではない。最強の師匠が弟子を構うということは、極めて効率の高い修行を的確に遂行させるということである。もちろん、修行に上手い抜け道などはない以上、効率の高い修行とは基礎体力づくりから始まる過酷な日々を意味する。しかし、弟子を限界ギリギリまで酷使させても、限界を超えさせることはない。そのため、弟子の側から見ると無理難題を強制されて生きるか死ぬか……という日々を送ることになるが、ふと不良グループに絡まれてみるといつの間にか本当の強さが身についていることに気付かされるのである。
そして、この作品の主人公、ケンイチにとって、その強さは一方的にいじめられず自分の意見を相手に言うという目的のために不可欠なのである。
● PC梁山泊という構想
さて、私が思ったのは、「この作品の梁山泊のPC版があってもいいじゃないか」というものである。
つまり、PCの飛び抜けた達人を集めた「PC梁山泊」という指導集団を作り、たとえどのような苦難の修行であろうとも乗り越えて強くなることを望む若者に修行を付けるのである。
たとえば、「どのような手段を使っても構わないし、機能性や操作性も問わないから、ともかく明日の朝までにスクラッチから書き起こしてテキストエディタを作ってこい。ちなみにテキスト編集のコントロールを貼り付けてエディタにするのは不許可!」であるとか、「このCのソースに相当するプログラムをマシン語で書け。しかも、このマシン語命令表を見ながらハンドアセンブルすること」であるとか、限界ギリギリの難題をぶつけていくわけである。
誰もが参加する企画ではないが、オンライン上で修行を行うようにすれば、修行自体が1つのドラマを生み、横から見ている面白さも生むかもしれない。
● PC梁山泊の参加者に求められる資質
PC梁山泊構想の優れている点は、師匠に「万能で完璧な神様」であることを要求しないことである。
つまり、たった1つのテーマに限って、平均を大きく上回る知識、経験、見識があればそれだけで師匠の一人として参加することができる。知らない分野のことは何も知らなくても、全く問題はない。また、そのテーマが最新である必要もないし、タイムリーである必要もない。PC梁山泊が鍛えるのは本物の「強さ」であって、流行が去れば価値が消滅する「強さ」ではないのである。
このように書けば、「もしかしたら自分も師匠になれるかも」と思う人もいると思う。更に言えば、そのように思った人のかなりの割合は、自分の得意なテーマで若者をビシビシ鍛えるというアイデアに魅力を感じたはずだ。知識や技能は、自分の中で腐らせるよりも、他人に伝えた方が手応えがある。
では、弟子の方はどうだろうか?
これはもう、「そういう修行が好きなタイプ」という人達がいるはずである。そうでなければ、地味な修行を自ら望んで繰り返す若者達がいつの時代も存在することを説明できない。とすれば、そのようなタイプの若者が、PCの分野にのみ存在しないとは考えられない。
おそらく、弟子の志願者はかならず存在するし、その中には必ずPC梁山泊で行われる修行を乗り切る者がいるだろう。