早朝の満員電車の中。
電車通学中の一人の少年が、とても魅力的な女性を見かけた。
その瞬間、少年の心の中に『小さな好意が生まれた』。
少年は女性のことをもっとよく見たいと思ったが、なにせ満員電車の中である。近づくことすらできない。
そうこうしているうちに電車は終着駅に到着し、全ての乗客をドアから吐き出し始めた。人の大河に押し流された少年は、必死にその女性に近づこうとしたが、それはあまりにも難しかった。
しかも、必死に女性に近づこうとする努力に全力を注いだ結果、逆に女性を見失うという最悪の結果を招いてしまった。
がっかりした少年は、そのまま電車を乗り換えて学校に向かった。
だが、少年が人の大河であがいている時に、思いもよらないことが起こっていた。
少年の心の中に生まれた『小さな好意』が、人波に揉まれるうちに少年から転げ落ちてしまったのだ。
ラッシュが過ぎて人の数も減ったホームの上で、一人取り残された『小さな好意』は途方に暮れていた。
『小さな好意』はため息をついた。
「僕はこれからどうすれば良いのだろう。僕が持っているものといえば、あの女性が好きだという小さな気持ちだけ。これが大好きという熱烈な大恋愛の気持ちならともかく、すぐに忘れてもおかしくない小さな気持ちだよ」
駅のベンチに座った『小さな好意』に、声を掛けてくる者があった。
「おい、おまえ。そこは俺様の特等席だ」
「あなたは誰?」
「オレか? オレは『大きな悪意』だ」
「へぇ。大きいのはいいですね。僕なんか、『小さな好意』ですから」
「バカ。悪意が大きくて良いものか。悪意ってのは他人を傷つけるばかりか、自分にもダメージを与える最悪の代物なんだぞ。しかもそれが大きかったりすると、悲劇しか生まん」
「でも、大きければ持ち主も忘れたりしないで、きっと探しに来ると思いますよ」
「そうかな」
「そうですよ、絶対に」
「満員電車で振り落とされてから、もう何年も経つが、持ち主が探しに来たことは一度もないぞ」
「え、まさか……」
「だってそうだろう。悪意など、持っていない方が気持ちが良いに決まっている」
「あなたの悪意は、いったいどのようなものなのですか?」
「しつこいストーカーを殺してやろうという悪意だな。だから、持ち主がオレを落としたのは正解だ。落とさなければ殺人者になるからな」
「うひゃ! 殺人は犯罪です!」
「そういうおまえはどうなんだ」
「僕は、電車の中で綺麗なお姉さんに一目惚れしたという小さな好意です。僕を取り戻しても、悪いことなど起こるはずはありません。遠くから見ているか、それとも決意を持って愛を告白するか……。でも小さな好意ですから、はたして告白まで行くかどうか……」
「はっはっは。おまえはいいな。きっと、持ち主が探しに来るさ」
「本当にそうでしょうか。あまりに小さいので、不安です。持ち主が好きな女の子は他にもいるし、もしかしたらそっちの好意の方が大きいかもしれません」
「何、恋なんてものはその場の勢いさ。勢いがあれば大小なんか、関係ないね」
「じゃ、勢いが無かったら……?」
なぜか『大きな悪意』は黙り込んでしまった。
そしてやや間を置いてからこう言った。
「しょうがねえな。そのベンチはおまえが使え。オレの特等席はそこだけじゃないからな」
そして『大きな悪意』は立ち去った。
『小さな好意』は、一人ぼっちでひたすら自分が再び少年と巡り会えることを祈り続けた。
夕刻のラッシュ時間になった。
また人が増えた。
ベンチに座り込んだままの『小さな好意』のところに、『大きな悪意』が再び訪れた。
「おまえの持ち主、まだ来ないのか」
「今日は部活があるから帰りが遅いんですよ。そろそろ来ると思います」
「大丈夫、きっとおまえのことを探すさ」
「そうだといいですけど……」
人の波に乗って少年がやってきた。
だが、ベンチに座った『小さな好意』には目もくれず、通り過ぎようとした。
「やっぱりダメか」
『小さな好意』がため息をついた瞬間、奇跡が起こった。
少年の目の前に、朝のあの女性が現れたのだ。
少年はハッと何かを思い出したようだった。そして周囲を見回すと、『小さな好意』を見つけた。
「そんなとこにいたのか! 来いよ!」
少年は『小さな好意』を掴むと自分の胸に押し当てた。
勢いを得た『小さな好意』は、少年の幼いハートを燃え上がらせた。
「お姉さん、好きだ~~~っ!」
勢いに乗った少年は、あの女性に向かって叫びながら突進した。
驚いたのは女性である。
しかも、かつてストーカーにつきまとわれて、相手を殺そうとまで思った悲惨なトラウマがある。
単なる経験不足の少年の純情と、悪意あるストーキングが女性の頭の中では混濁し、両者が同じものに見えた。
次の瞬間、いつもホームにいるのが分かっていながら見ないふりをしていたそれの存在を思い出した。
そう、彼女がかつて「わざと」落として捨てた『大きな悪意』だった。彼女は、この『大きな悪意』の助けを借りて反撃しなければ身が危ないと思った。
「バカ、やめろ!」と『大きな悪意』は持ち主から逃げようとした。
だが、勢いの付いた女性から『大きな悪意』は逃げ切れなかった。
不本意ながら『大きな悪意』は女性の胸の中、本来の居場所に押し込められた。
次の瞬間、女性はいつも持ち歩いている護身用のナイフをバッグから取り出して構えていた。
『小さな好意』に後押しされて勢いの付いた少年は、そのナイフに向かって突進していた。もう止まれなかった。
(遠野秋彦・作 ©2007 TOHNO, Akihiko)
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