本作品はフィクションであり、実在する、あるいは実在しないいかなる小説ジャンルとも関係はありません。
世の中には架空戦記という馬鹿げた小説のジャンルがある。架空戦記とは、書いて字の通り架空の戦記小説なのだが、ファンタジー世界の戦争小説を架空戦記とは呼ばない。架空戦記とは、実際に存在した戦いの経緯や結末をねじ曲げたものだ。
だが、ねじ曲げた戦争を描けば良いというものではない。たとえば、日露戦争で日本海軍が敗北し、バルチック艦隊が勝利するような架空の小説は少なくとも日本では成立しない。要するに、「負けた戦いをご都合主義的に勝つ方向にねじ曲げる」という「現実から目を背ける」方向に書かねばならないのである。これは、負けているのに「へへん、まだ負けてないもんね」とその場から逃走して「負けなかった」と強弁する子供の理屈である。
もちろん、良心的な架空戦記は個別の戦いを「敗北」から「勝利」に変更してみせても、全体として良い結果をもたらさない結末を描く。しかし、読者側から見れば敗北から勝利への書き換えという現実逃避が求められているとしか見えない。
もちろん、それは不毛である。
現実は現実であって、過去は変えられない。たとえば、あの海戦に戦艦大和が参加していれば、あるいは戦艦大和がもっと強力なスペックで就役していれば……といった仮定には何の意味もない。そういった無理が可能になるということは、敵も無理が可能になるということであり、双方の戦力がどちらも増加することで結果は大差のないものになるだろう。
さて、ここまで散々架空戦記を非難してきたが、この文章の本意は架空戦記の内容に含まれる問題を指摘することではない。そうではなく、架空戦記の繁栄によって存在が隠されてしまった悲運のジャンルが存在することを指摘したいのである。
そのジャンルとは架空線記である。
架空戦記ではない。
架空線記である。
だが、そもそも架空線記とは何だろうか?
架空の線記だろうか?
そもそも線記とは何だろうか?
もちろん線記という言葉はない。この解釈は言葉の区切り方を間違っているのだ。
正しくは、「架空線」の「記」と解釈する。「架空線」という言葉には、電柱を使って空中に渡されるケーブルを示す意味もあるが、ここで使われる「架空線」の意味は異なる。これは、廃止された鉄道を示す「廃線」、計画だけあって完成しなかった「未成線」と同じような意味で、架空の鉄道路線を意味する言葉である。
つまり、「架空線記」とは架空の鉄道を描く小説のことである。
典型的な例としては、豊田有恒の「酷憂鉄道」があげられるだろう。この小説は、国鉄(当時)の代わりに多数の私鉄が日本を覆う鉄道網を網羅する世界を描く。そこには多数の架空線が出現する。
小説に限定されないならば、秋本治の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」にも架空線はしばしば登場する。たとえば、大原部長の自宅と派出所の間に玉電200形(イモムシ、ペコちゃん)を走らせる架空線が登場する。この路線の大半は中川鉄道の線路を使用していると思われるが、そもそも中川鉄道も架空線である。
かのように一部で根強く描かれ続ける架空線であるが、それがジャンルとして認知されない理由はやはりあまりに名前が紛らわしい、「架空戦記」という言葉にあるとしか言いようがない。
しかし、この問題を放置するのもやはり現代を生きる者として無責任というものだろう。
そこで、架空線記作家連盟の会長を務める、カーク千騎に質問状を送ってみた。
その返答を以下にそのまま掲載する。
「架空戦記」には怒っていますよ。ええ、紛らわしい名前で本を売りまくってたまったものではありません。「架空線記」だって面白いのに、ごっちゃにされて売れません。
だからもう残された手段は戦争しかありません。全面戦争です。題して「架空線記」対「架空戦記」の「架空対決」「架空戦争」です。
もちろんこの「架空戦争」の経緯は小説の形で皆さんにお知らせします。題して「架空戦争記」略して「架空戦記」です。
なんちゃって!
(遠野秋彦・作 ©2008 TOHNO, Akihiko)
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