人間、うかつな話はいくらでもあります。
というわけで、ずっと見落としていたものがあります。壁のbiacさんに教えられるまで、以下のページの存在に気づいていませんでした。
すぎなみ学倶楽部 │すぎなみ人とっておき物語より
『田んぼや川が遊び場だった~下高井戸、今は昔の物語』
昭和20年3月10日の東京大空襲では日水園(日本水産の建物 注1)が軍事施設と間違えられて、たくさんの焼夷弾が落とされましたが、ほとんどの焼夷弾は木に引っかかってしまい、その焼夷弾から、たくさんの火花がまるで花火の様に散っていたそうです。 また、当時の田んぼ(今の東電グランド)にも落ちて下高井戸駅の方から逃げてきた人が大火傷をし、リヤカーに積んできた家財も焼いてしまったそうです。
(中略。以下次ページ)
《編集部 注記》
(注1) 日水園について編集部が調べた結果は下記の通りです。なお、調査には日本水産株式会社様のご協力を頂きました。
1942年、日水園という日本水産の厚生施設(野球場・テニス・バスケット)錬成道場(剣道・柔道)が開園された。1945年、捕鯨部・船舶部事務所設置、戦争中には、一部農園として利用された。1957年から10年間、研究所施設併設。日水園他用地8600坪を杉並区に売却し、この用地が、現在の下高井戸区民集会施設・下高井戸運動場・向陽中学になっています。
これはっ!
日水園は吉田園、曉雲園と並ぶ下高井戸第3の「園」と呼ぶべきものか!?
いや正確には、桜上水Confidentialさんが既に日水園に言及しているので、曉雲園の方が第3の園か?
桜上水Confidentialさんが言及した時点ではさっぱりピンと来ていませんでしたが、今日になって唐突に解釈が可能になりました。この問題には印象を曖昧化させる罠があります。
向陽中・下高井戸グラウンドの前身問題 §
向陽中・下高井戸グラウンドの敷地が、それ以前には何であったのかは悩ましい問題を含みます。以下、概要をまとめます。
- 昭和22~23年の航空写真を見ると、何らかの広い敷地の平坦な施設がある
- この前後の地図を見ると、全面的に田であり、中央に高い土地があるかのように見える。つまり、航空写真と地図で矛盾がある
- お屋敷山古墳という古墳があったとされるが良く分からない
というわけで、極めて印象が掴みにくい存在でした。
可能となった解釈 §
戦中から終戦直後に掛けての地図は、実際にはその当時の状況を的確に反映していない可能性が高い、ということが実例を通じて最近は痛感されるようになりました。
従って、太平洋戦争開戦の翌年である1942年に開設された日水園が、まっとうに地図に掲載されていないとしても、何ら不思議ではないことになります。
つまり、実際に地図に記載されているのは昭和初期の状況であって、地図の発行年の状況は何ら示していない可能性が高いといえます。
推定される状況の推移 §
- 従来、このあたりは田であり、小さな丘が存在した。これが「お屋敷山古墳」であると考えられるが人為的に土を盛り上げたのか、自然の丘であるかは現時点では未調査
- 大正年間に古墳の発掘調査が行われた
- 1942年、日水園を建設するために丘は切り崩されて消失した。ぬかるんだ湿地に近い土地であり、埋め立てるために丘の土砂を使ったという可能性も考えられる
- 戦後、この敷地は向陽中学校と下高井戸グラウンドになるが、これらの施設が土地を受け継いだときには既に丘は存在しないし、田でも無かった
この推定は、なぜ向陽中学校から発せられる過去の「語り」で「お屋敷山古墳」に対する言及がないのか、その理由を明らかにしている点で魅力があります。
余談 §
実は下高井戸在住だった父(故人)は、中央信託銀行の社員でしたが、当初は日水で働いていました (このときは、正社員ではなかった)。なぜ日水なのか、ということは考えたこともなく、存命のうちに質問したこともありません。しかし、このようにして考えてみると、日水で働き始めた時期はおそらく昭和20年代末期であり、下高井戸にまだ日水の施設が存在していた時期だと思われます。とすれば、何らかの地元の縁があった、という可能性も否定できなくなります。(ただし、父が働いたのは株式、証券を扱う部署であったらしい)
感想 §
これは向陽中学校の前史という位置づけにもなるし、神田川と支流の流路の変遷を考える助けにもなる重要な話題です。