YAMATO 2520と我が青春のアルカディア(映画ね)は以下の共通点を持つことに気付きました。
- 「艦長」の敗北が過去に存在する
- 「艦長」は新戦艦に乗り込んで旅立つ
ところが、以下の点で決定的に違います。
- 「艦長」が若者であるか (ハーロックは若いがトーゴーは老人である)
- 「艦長」が主人公であるか (ハーロックは主人公だがトーゴーは主人公ではない)
- 「艦長」が新戦艦を自ら望んだか (ハーロックは新戦艦を欲しがったがトーゴーが望んで復活を指令したわけではない)
- 「艦長」の目的は明確か (ハーロックの目的は曖昧だがトーゴーの意図は戦争回避であり明確である)
- 負けた後で気持ちも負けているか (ハーロックは気持ちの上では負けていないが、トーゴーは負けている)
つまり、最終的に「未練を果たすために新戦艦でリベンジの航海に出る」という点では共通しますが、その意味合い、状況は全く異なります。
決定的な差は以下の点にあります。
- 戦争に負けても生きていれば気持ちの上ではまた負けていない
- 死ぬまで戦うから戦争に負けた時点で死んでいるはずである。たとえ身体が生きていても心は死んでいる (ただし、生き返ることもある)
このことは、プロデューサと実働部隊の感覚の差かもしれません。実働部隊は常に次の仕事への余力を残して終わるのが基本です。しかし、プロデューサが実働部隊に望むのは完全燃焼でしょう。
実は気付いてしまった §
ヤマトにおいて「死」は何のために存在するのでしょうか?
戦いに勝利すためでしょうか?
実はそうではないかもしれません。
実は、ヤマトにおける「味方の死」の大半は以下のパターンに収束できることに気付いたからです。
たとえば、スターシャの死は「戦争回避」です。サーシャ(2代目)の死は「仲間を死なせない」です。
これらは要するに「死の回避」であり、そのために「死ぬ」という自己矛盾を孕みます。
しかし、そうすると「さらば」の特攻とは何であったのかを再評価できます。
あれは、死んでまで勝ちたいという欲ではなく、「死の回避」のための「死」ではないかと考えることができます。
とすれば以下の解釈は的を得ていないことになります。
- ヤマトを特攻させないで撤退して生きて徹底抗戦した方が良かったのではないか
その方法なら勝てるかも知れませんが、時間が掛かれば「死人が出る」と思うなら、その場で自分の命と他人の安全を交換しなければなりません。
つまり、古代の命ではなく、古代が守ろうとした何かを想定しなければ、是非は判断できません。
(とはいえ、テレサが反物質の唾でも吐けば勝てただろう、というのも事実であり、必ずしも突っ込む必要があったのかは分かりません)
とはいえ §
おそらく西崎版「我が青春のアルカディア」はあり得ません。そのことを端的に示しているのが、2520なのでしょう。西崎的生死観において、敗戦後の物語はあり得ないからです。あり得るのは敗戦後の新しい世代に主導される次の物語です。
実はその点で、「我が青春のアルカディア」は分かりにくく模倣しにくい性格もあると思います。たとえば、全くこの映画を分かっていないレベルの低い評価は珍しくもありません。それもそのはず、この映画は「ある時代」の「ある空気」を色濃く反映したものであり、それが分かる場合は自明であるにも関わらず、分からなければ全く意味不明になってしまうからです。ちなみに、生涯で見た松本映画で最も面白い2本は千年女王と我が青春のアルカディアですが、どちらも評価の悪さにはげんなりします。評価も質も悪いと思います。……という松本ファンモードはさておき。
ああいう世界観も嫌いではないよ……と思いつつ、実は「西崎生死観」の方が、「いさぎよい」という可能性もあります。なぜなら、特定の瞬間に完全燃焼してしまうのが、「西崎生死観」だからです。死とは「燃え尽きたぜ」と言って真っ白になった状況でしかなく、そういう意味で本当に意味があるのは「死」ではなく、「死ぬほどに活動する」瞬間にあるわけです。だから、佐渡先生が死んでいることに驚くのはただの結果であり、実際は「ヤマトカクテルつくれや」という佐渡を見るべきであったと言えます。