ジェネラル・ガルダはトーゴーだ。
若者達が勝手にYAMATOの残骸を見つけてしまうことと、勝手にリアベの実がグラスに入っていたことは同じなのだ。たぶんね。
夢が……戻ってきたのだよ
「さあ行くぞサンチョ・パンサ」
「オレ、ナブって名前なんすけど」
「ええい、おまえなんぞサンチョ・パンサで十分じゃ! いざいかん、巨大なる風車に向かいて!」
「あれ、風車じゃなくてセイレーン艦隊なんすけど。まさか、YAMATO一隻でたたかうんすか?」
YAMATO 2520完結編Vol.009より (大嘘)
それは象徴的なのだ §
脱松本的な2520がむしろ、別の漫画家の作品と類似性を見いだせることは象徴的と言えます。
そもそも宇宙を飛ぶ帆船というビジュアルイメージからして、オーディーンとの類似性を指摘できるのだがそれはさておき。
歴史を考えると §
いかにも、ヤマト、スターウォーズ、未知との遭遇といったSF映画ブームに触発されて出てきたパッと出ただけの「宇宙からのメッセージ」という印象でしたが (海底軍艦の伝統を持つ轟天が出てくる惑星大戦争とそこが違う)、よく考えてみると「石ノ森」的には既に「空飛ぶゆうれい船」で帆船を飛ばす映像は実現済みであり、特攻も実現済みであり、それゆえに「敗者のリベンジ」的な老成した映画がいきなり飛び出してくる訳ではないことになります。ちなみに、宇宙からのメッセージでいえばガルダだけではなく、借金取りに追われながらバイトして田舎で暴走している若者も、又貸しで追われる借金取りも敗者です。そういう連中とつるんで走っているお嬢様も敗者。
そういう観点から見れば、実はヤマトも「長い伝統の末裔」としていきなり老成したムードを持つことになります。「お父さんが博士で凄いロボットを作って息子の僕が悪を撃つ」というよくある子供っぽいパターンと無縁であるのは、そういう子供っぽいパターンを乗り越えた先にある企画だからでしょう。
(逆に、ガ○ダムはこのパターンそのものであり、子供へのウケはむしろその方が良いだろう)
実はよく考えれば、ヤマト復活編も「敗者のリベンジ」という価値観が濃厚に満ちあふれています。ヤマトの味方になってくれる者達も、敵の大半もSUSの軍門に下った敗者連合です。一方のSUSですら、実際は資源不足に悩んで他の宇宙に手を出した一種の敗者です。そして、古代はいくら頑張ってもサーシャ(2代目)等の多くの命を救えず、最後は復活した沖田に地球を救われてしまって、娘にも糾弾される敗者です。
そもそも、完結編でヤマト艦長の辞表を書いても未練たらしく第1艦橋を見に行ってしまう古代君ですよ。(あのシーンは好きなのだ)
そういう意味で、「僕は完璧だ。優秀だ。絶対に勝てる」と思っている限り、まだ子供であり、ヤマトの世界にも宇宙からのメッセージの世界にも行けないわけですね。でも、ガ○ダムの世界には行けるわけです。しかも子供は暇があるから、ネットであたかもガ○ダムが流行っているかのように見えるが、本当のヤマトファンは別にネットに浸るわけでもガ○ダムの世界に行くわけでもなく、「満足にはほど遠い人生を歩んだオレだけど、ヤマトから勇気をもらったから、もうちょっと現実世界で頑張るかな」と思うわけですね。たぶんそういうことだろうと推測します。
余談 §
いやちょっと待て。この問題は、「轟天」にも敗者のリベンジというドラマがあることも示唆しているぞ? 日本特撮がアメリカ特撮の逆襲にやられていた頃だし。いやまあ惑星大戦争が良い映画か、本当に特撮界はリベンジに成功したのかという話はさておき。
ヤマト、轟天、宇宙からのメッセージと「敗者のリベンジ」という作品が並んだ1970年代には、何か特別な意味でもあるのでしょうか?
ちなみに、轟天は何回も描かれていて、原点となる海底軍艦の原作は押川春浪であり、明らかに伝統の根っこの部分がヤマトと共有されていると思われます。いやまあ、惑星大戦争を起点に考えるのは躊躇してしまうがゴジラFINAL WARSはテレビで見て面白かったから。マグロ食ってる奴はダメだし。百発百中の男だし。