「映画って本当に良いものですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」
「って始まってすぐ終わらせようとするな!」
「モスクワ」
「は?」
「サヨナラを打ち続けているのはモスクワだ」
「なにそれ?」
「北京リオデジャネイロは出力低下、電波キャッチ不能なのだ」
「ヤマト第1シリーズ第2話ですかい」
「というわけで、映画なのだが。こうして映画館通いを始めてはたと気付いたことがある」
「なんですかい?」
「外れがない」
「ほほう?」
「どれも面白いのだ。しかし、それはおかしいとは思わないかね?」
「それはなぜ?」
「世の中で評価の低い映画は多い」
「なるほど。あんた1人だけ当たりを引き続けるのはおかしいわけだ」
「そうだ。しかし、それを説明できる理屈が徐々に見えてきた」
「というと?」
「理論的に考えて、面白くいない映画は存在しないとは言わないが存在する確率は著しく低い。つまらない映画を作ろうとする人はまずいない。だから当たりばかり引くわけだ」
「では、なぜ評価の低い映画が出てくる?」
「引き出しの問題だ」
「引き出し?」
「自分が持っている引き出しが面白さを理解できない場合、それは面白くない映画になる」
「それって」
「映画がつまらないのではない。面白くする手段を受け入れる引き出しを、見る者が持っているかが問われるわけだ」
「引き出しが多ければ、見た映画が分かる確率は増えそうだね」
「そうだ。引き出しが多ければ多いほど、有利ということだ」
「ちょっと待て。それじゃ評価が低い映画というのは」
「映画がつまらないのか、見た者の引き出しが足りないのか、それだけでは分からない」
「つまり?」
「実は映画を評価するという行為は、映画を評価しているのではなく、観客の質を調べる試験紙になっている可能性があるのだ」
「それって、かなりきつい仮説と違う?」
「そうだ。きついぜ」
「もっと詳しく具体例を出して」
「たとえば、ヤマトよ永遠にという映画がある。これは最初に劇場で見たときつまらないと思った。でも、LDボックスを買った後で見たとき、それほどつまらないとは思わなかった。そして、今は評価を修正している。子供の頃は見ている場所が違ったのだ。ひおあきら版を見ればカットさえなければ筋の通った面白い映画だったことが分かる。更に言えば、カットされたシーンは楽しむべき場所ではなかったが、勘違いして期待していたシーンと重なるのだ」
「ということは?」
「だから、永遠にはつまらない映画なのではなく、それを受容する引き出しが当時は足りなかったということだ」
「なるほどねえ」
「だから、いろいろな大人の事情でつまらない映画ができてしまう可能性がないとは言わないものの、映画とはどこかに面白いと思って貰える要素を誰かが入れているものだのだ。それを見いだせる眼力こそが試されるといえる」
「しかも、それは作り手よりも客の問題なんだね」
「そうだ。従って他人の映画に対する評価は全く無意味。あくまで自分が見てどう思うかだけが問題なのだ」
「そういえば、他人の評価とかまるで調べずに見る映画を決めて見に行くね」
「その理由のほとんどは時間の不足にあるわけだが、結果としては成功だと思う。余計な先入観を持たずに映画を見られる」
「つまり先入観は悪であると」
「うん。悪だろうね。それから席が選べることも意味がある」
「割と前の方の席を選んでるよね」
「C列の真ん中あたりが多いかな」
「かなり前だね」
「おおむね、その辺なら大きくよく見えるし、小さい字幕で困ることもないし安心だ。前の観客もまずいないし、いても僅かだ。迷惑を被るリスクは小さい」
「なるほどねえ。だから席がブロックではなく1つごとに選べることに意味があるのか」
「よく行く府中の映画館はそうなっている。他に吹き替え版のメリットもあるかな」
「なぜ吹き替え?」
「字幕とスクリーンの中心を目で移動する頻度が減って疲れないで済むからね。だらだらと見られる」
「それって重要?」
「思い入れのある映画ならまだしも、だらだら見に行く未知のタイトルは楽に見られるのに越したことはないよ」
「なるほど」
「もう1つ、上映が始まって数日以内に見に行くケースも割と多いことも意味があると思う」
「というと?」
「早ければ雑音が入る可能性も減らせる」
「雑音ねえ」
「あれがいいとか、あれが悪いとかいう評価は雑音だよ」
「最終的に自分の評価は自分で決めると」
「というか、他人の評価が外れていることは珍しくないのだ。特に悪評は間違っていることが多い」
「ヤマトも?」
「そうだ。要するにヤマトの悪評とは、ヤマトを受容する引き出しを持っていない客が、僕は引き出しを持っていませんと自分で宣伝して回ってるようなものだ」
「彼らが間違っていると客観的に証明できる?」
「それはできない。沖田艦長、あなたが地球のために戦っているように、私の感想にもガミラスの命運……もとい、私の感想はすべて主観的だからだ」
「では、あなた自身の評価も証明できない主観に過ぎない?」
「そうだ。でもいいのだ」
「なぜ?」
「結局、自分が楽しい時間を過ごして、映画って本当にいいものですね、と思えればそれで良いからだ」
「それだけいいの?」
「だって、客が金を払う理由として他に何がある? 評論家ですらないんだぜ」
「ごもっともで」
「もっとも自分を評論家と錯覚して偉そうに言っている連中もいるかな」
「でも、本当に評論家になれたとして、それが幸せ?」
「さあ。とりあえず、世の中にはいろいろな人がいるから、どんな評論をしても攻撃されるだろうね。そういう立場だよ。それでも傲慢な態度を続けられれば立派なものだ」
「肯定しちゃうの?」
「いや、どうせ評論など見ないで映画を見に行くから関係ない。以上だ」
「結論が出たようで」
「それでは、サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」
「モスクワ、サヨナラを打ち続けています!」
「関東地区、放射能更に0.5キロ降下」
「指令、わしは行くぞ」
「しかし、君の身体は……」
「週1の劇場通いはわしの身体から体力を奪うかも知れない。しかし、それだけの価値はあると思うのだよ」
「ってどこまでヤマトネタをやってれば気が済みますか!」
オマケ §
「というわけで、これを書いてからかなり時間がたったわけだけど」
「うん」
「結論は変わらない?」
「評価の難しい映画にも遭遇しているし、いろいろ難しい面もあると分かった」
「たとえば?」
「ダレン・シャンとかは、実は長い原作の一部だけやっているから、肝心の謎が解かれないまま終わってしまったりするしね。でも、つまらないわけではないよ、映画として」
「でも、面白いと思えるかは引き出し次第と」
「うん」
「しかし、最近は洋画が多いけど、それでいいの?」
「もちろん、ヤマトが見られればそれに超したことはないが、やはりヤマトの道は洋画に通じている気がするな」
「なぜだろう?」
「良く分からないが、やはりヤマトのライバルはスターウォーズであり、未知との遭遇であり、宇宙空母ギャラクティカだったからだろう。ちなみにこの原稿は昨日公開したトロンの話よりも前に書かれているので、少し順番が前後している」
「ということは……」
「ヤマトのあとの時間に日本沈没を放送していたが(東京の話)、日本沈没は既に末期だった。小説があり、映画があり、そのままテレビになったわけで、既に日本は2回も沈んでいる。ある意味で今更な感じもあって、ヤマトのライバルにはなれない。惑星大戦争はパワー負けしてるし、宇宙からのメッセージも渋すぎるし、気負いがうまくまとまっていない。映画日本沈没の直接的な後継はノストラダムスの大予言だが、要するに環境を良くしましょうというエコ映画のはしりみたいなもので、やはりスケール感が足りない。小説を含む日本沈没の直接的な後継はさよならジュピターということになるが、これも敵が宇宙からの侵略者ではなく、宇宙に来てまで破壊活動するエコの活動家ではやはりスケール感が乏しい」
「さよならジュピターの敵ってブラックホールじゃないの?」
「そうなんだけど、ブラックホールは見えにくい。エコの活動家がぶっ壊して無重力セックスして宇宙船の描写を映画2010年宇宙の旅で参考にされた、という印象ばかりが残ってしまう。結局、ブラックホールが敵という発想は、小説家の発想だと思うな。なぜかといえば、黒い穴は、映画に必要なインパクトが乏しい」
「そうか。さよならジュピターは日本SF界が総力をつぎ込んだと言われるけど、その場合の日本SF界とは小説SFになるからか。SFとは基本的に小説SFだからね」
「ちなみに、ヤマトより少し後の洋画ブラックホールの予告編がCGを使っていてすごく格好良かったけど、CGで格好良くまとめていない本編はそれほどでもなかった感じだ」
「それで?」
「ヤマト復活編のブラックホールという敵のアイデアも、石原慎太郎現都知事元小説家の発案らしい」
「なるほど。だから小説家の発想か」
「だからさ。ヤマト復活編がまがりなりにも映画としての体裁が整っている作品たりえているのは、コンピュータによるブラックホールの可視化という設定がさらっと流せて、かつ、実際の映像としてそれが描けるようになったという点が大きいと思う。ブラックホールをテーマにして映画が作れるのは、やはり2009年の復活編公開の時期を待たねばならなかったのだと思う」
「ということは?」
「1990年代に復活編を作っても、映像が安っぽくなって面白くなかった可能性もあり得るのではないかな」
「ということは、ヤマト復活は2009年まで待って正解だったのかな」
「結果的にはそうかもしれない」
「そうか。昔はせいぜいハルマゲドン接近ぐらいまでだったけど、今ならブラックホール接近でも映画になる訳か」
「ってか、ハルマゲドン接近で上手く行ってないぞ。ドラクエ9でげんませき集めに奔走するこの時代に誰が幻魔大戦を覚えているというのだ」
「なるほど。考えてみれば、ハルマゲドンはどうやっても可視化できないね」
「ハルマゲドン=最終戦争は可視化できない概念だ。それ以後に戦争がなかった場合にのみ成立するが、戦争中にそんなことは誰にも分からない。これが最終戦争だと叫ぶ人間もいるだろうが、同じように叫ぶ詐欺師との区別が付かないし、それが本当であるという保証がない」
「でも、最終戦争はけっこう映画になってる気がするぞ」
「全面核戦争でみんな死んでしまいました。という結末を付ければ、それが最終戦争だという説得力が出てくるからね。実際に冷戦時代はそれがあり得る未来だと認識されていたわけだから」
「昔の日本特撮の世界大戦争とか、世界が滅んで終わるけど、実際にあり得ると結末として描かれていたものね」
「可能性であって、単なるフィクションではなかった」
「今でもフィクションとは言い切れないね」
「ってか、世界大戦争ってどこまで渋いんですか」
「子供の頃に、テレビでやっている特撮っぽいタイトルを片っ端から見ている時に見たよ。強く印象に残っている」
「どんなかっこいいヒーローが活躍する映画よりもそういう映画ばかり印象に残ると、そういうひねくれた大人になるという証拠かもね」
「うん。ポリマーよりホラマー、マジンガーよりボスボロット、ガ○ダムよりアナライザーだしね」
「だからホラマーが主役になれないポリマーよりヤマト」
「だからヤマトか」
「うん。森雪の主役になれないアナライザーが主役だったりするエピソードもあるヤマトだ」
「それで?」
「つまりさ。敵を倒すことがハッピーエンドになるという設定が嘘くさいわけだ。打ち勝つべきは自己なんだよ。分かるかい?」
「そうか。だからヤマトはガミラス本星を滅ぼしてハッピーエンドにならない訳か」
「やったー勝ったぞバンザイ、とは言わないで、くそでもくらえと銃を投げてしまう。ヤマトのハッピーエンドとは、放射能除去装置を貰うことであり、それを地球で発動させることにある。戦争ではない」
「ということは、実は古代の勝利の本質というのは」
「ガミラス本星の壊滅は、本来デスラーが天井都市の全ビルをミサイルとしてヤマトに撃ち込んで、それが地上を壊滅させたから引き起こされたことで、古代だけに責任があるわけでもないし、ヤマトだけに責任があるわけでもない」
「でも森雪は泣いちゃった」
「古代も銃を投げてしまった」
「うん」
「そこで、ガミラスの皆さんごめんなさいと自決しないで、イスカンダルに放射能除去装置を取りに行った行為が、古代としての『自分に勝つ』ということだと思うぞ」
「結局、どれほどの罪の重さを感じても、古代1人で変えられる状況じゃなかったし、放射能除去装置を待ってる人も多いわけだから、ここでは止まれない」
「止まると、また人が死ぬからね」
「泣いていては何も解決しないぞセーラームーン、もとい、雪、行こうイスカンダルへ、他にどうしようもないじゃないか、と言って泣いている雪を慰めて航海に復帰する」
「他にどうしようもないね」
「世の中なんて、そんなものだ。どれほど失敗して後悔しても、どうしようもない用事が押し寄せてくる」