「以前、アニメ界と映画界という線引きをしたとき、実はアニメの一部は映画界に属するという話をしたね」
「うん」
「そこは異なるルールが支配している別世界だ」
「うん」
「そして、ヤマトも宮崎アニメも映画側だという仮説を示した」
「それで?」
「ヤマトの強力な敵であったアルプスの少女ハイジには、宮崎駿も参加していた」
「そうだね。一発も撃たないで劣勢に追い込まれたほどの強敵だ」
「うんそこだ」
「えっ?」
「ハイジの革新性は、ただ山羊を連れて山に登って帰ってくるだけで1エピソードを成立させてしまった点にあるという意見がある」
「うん。事件らしい事件が何も起こらない話だね」
「実はヤマトも同じなんだよ。ただ地球にさようならと言うだけで1エピソードを成立させてしまった。一発も撃たないどころか、具体的な敵さえ出てこない」
「そうか」
「1話完結で毎回同じパターンを繰り返すというお約束を蹴っているという意味で、どちらも凄く革新的だと思う」
「うん」
「だから、ヤマトとハイジは、互いに全く別の道歩く敵であると同時に、敬意を払うべき強敵の関係にあるんだと思うよ」
「そうか。そういう風に考えたことはないな」
「太平洋戦争で、我に大和魂あれば彼にヤンキー魂あり、と言って弾幕の中で突っ込んできた勇気ある敵機に向かって撃ちまくりながらも相手を認めちゃうような話と同じだ。凄く硬直的な世界観で、敵は敵と思っているけれど、相手を認めちゃう。日本兵と戦った元アメリカ兵が、目の前で日本を馬鹿にされると怒ったりするような話と同じとも言える。日本兵は強敵だったってね」
「そうか。敵であり、存在を正しいとはせず、打倒しようとはしているけれど、それでも存在は認めている屈折した関係か」
「うん。別に好きじゃないんだぜ。むしろ敵だから倒すべき相手と思っているぐらいだ。でも存在そのものは認めている」
「なるほど」
「でも話はまだ終わらないんだぜ」
「えっ?」
「なぜ両者は同じように革新的なんだろう?」
「たまたま偶然? それとも先行したハイジをヤマトが真似した?」
「それもあるかもしれないが、もっと別の可能性を考えている」
「というと?」
「つまり、ハイジとヤマトの根底にあるのは映画の発想なんだ。テレビの発想じゃない」
「ええ!?」
「たとばアニメのマジンガーZはテレビの発想で出来ているのだろう。劇場に持って行くにはスケール感が足りないので、他に何かを足してゲッターと競演したり、ジェットスクランダーのような強力な支援を必要とする。しかし、ヤマトや宮崎アニメの世界は、映画になっても援軍不要だ」
「そうか。最初から発想が映画なんだ」
「うん。ヤマトはヤマトだけで劇場に行ける。別にアルカディア号と競演する必要はない」
「な、なるほど……」
「実は映画的な感覚で、テレビの世界に向かってそれは違うのではないかと苦言を呈して挑戦したのがハイジであり、ヤマトではなかったか。更に言えば、猿の軍団もやはり映画的発想の仲間だったのかもしれない。知性を獲得した未来世界の猿という設定は、某映画を連想させるしね」
「なるほど」
「だから、宮崎駿は映画を作り続けてもうテレビはやらないし、ヤマトも映画で復活する。それでしっくり来るわけだ」
「では、テレビ用の宮崎アニメや、テレビ用のヤマトはもうあり得ないの?」
「いや、そうは言っていない。もし実現しても、発想は映画になるんだろう」
「発想が違うだろう、ということね」
「ちなみに、昔どこかで映画とは往復運動であるという話をどこかで読んだような気がするが」
「えっ?」
「行って戻るのが映画であると」
「というと?」
「アルムの山に登って降りるという話はもちろん該当するが、ハイジという話全体を見ても成り立つ。アルムの山からスタートして都会に行って、最後はアルムの山に戻ってきて終わる。ヤマトも地球から出発して最後は地球に戻って終わる」
「そんなことが映画なの?」
「映画とは絶対にそういうものであるとは言えないが、実は意外なことに割と当てはまるのだ。たとえば、アリス・イン・ワンダーランドは不思議な世界に行って戻る映画だし、ウルフマンでも田舎から都会に行って最後にまた田舎に戻ってくる。実はそういう事例が多いようだ」
「なぜだろう?」
「行くことで主題を提示し、帰ることで提示された主題を回収するからかもね」
「なんか意味が分かったような分からないような」
「うん。意味不明だ。でも、やっと分かってきたことがある」
「というと?」
「ヤマトファンであることと宮崎ファンであることはなんら矛盾せず成立するのだ。同じ世界に属する作品だからだ。だから、宮崎駿がヤマトのようなアニメを作れるかもしれないと漏らすことも、西崎さんがポニョをライバルと見ることも当然なんだ。同じ世界に属するから、そういう関係になれるんだ。でも、ガ○ダムは蚊帳の外だ。別世界に属する作品だから」
「なるほど」
「だから、ヤマトが好き、と宮崎アニメが好き、という気持ちは矛盾無く両立するが、ガ○ダムになると別に好きではないという気持ちになってしまう。こちらも、最初からヤマトや宮崎アニメと同じ世界にいる客であって、ガ○ダムの客とはいる世界が違うからだ」
「それで?」
「だからさ。歴然とした映画である海底3万マイルで洗礼を受け、空飛ぶゆうれい船でぬぐえない刻印を押されたおいらが、矛盾無くヤマトを見られるわけだよ。それらは広い意味で同じジャンルに属するからだ」
ライダーも実は §
「突然思いついたのだが、今時のライダーもやはり発想が映画になってる」
「超電王トリロジーとか3部作を映画としてやるしね」
「テレビでやってるライダーWもだ」
「というと?」
「ライダーWは基本的に2話完結だ」
「うん」
「良くあるパターンだと、依頼人が来て捜査に出かけると、実は依頼人が犯人だったと分かる」
「それで?」
「つまり往復運動なんだよ。まず依頼人が起点としてあって、そこから調査に行って戻るとそこに犯人がいるという構造なんだ」
「ええっ?」
「作り手側の発想も、映画的になってきているのかもね」
「そうなると昔の感覚でライダーはもう見られないね」
「うん。そう思うよ。毎回ライダーキックで敵を倒して終わる世界観はもう過去のものだろう」
余談 §
「実は1つ気づいたことがある」
「なんだい?」
「ヤマトは1人で劇場に行ける。アルカディア号と競演する必要はないと言ったね」
「うん」
「でも999は劇場に行くためにアルカディア号と競演する必要があったわけだ」
「えっ?」
「アルカディア号にしても、テレビはアルカディア号が主役メカであったが、劇場に行くとそうでもない。実は、我が青春のアルカディアでは、Bf109や初代ハーロックの機体など、別の主役メカに支えられている面がある」
「それってどういうことだい?」
「むしろ、松本アニメは映画よりもテレビのスケールではないかという気がしてきた」
「ええ!?」
「ダンガードやスタージンガーやテレビのハーロックなどを手がけているうちに、テレビ的なセンスが染みついてしまったということも考えられる。あるいは、もともと映画大好き少年ではなかったのかもしれない。虫が好きでも、四畳半でクラシックを聴く趣味はあっても、ステーキを食べに行って言葉にならない声をあげても、あまり映画にはまったという話は聞かない気がする」
「なるほど。確かにそういう気がしてきた」
「ただ、千年女王の劇場版は珍しくストレートな映画だったという気がする」
「というと?」
「主役メカは零戦で、一本筋が通っている。関東平野を浮上させて零戦とP-38で宇宙からの侵略者を迎撃するという話は論理的ではないが、ぶれてはいない。理屈から言えばおかしいけれど、一本の筋が通っている。千年女王はメーテルか、と宣伝で煽ったけど別に999やメーテルと競演している訳ではない。アルカディア号も別に出てこないし、エメラルダス号も出てこない。もちろんヤマトもまほろばも出てこない。ご先祖が乗っていた飛行機も出てこない。というか、ご先祖が乗っていたかもしれない飛行機と主役メカが一致している」
「なぜだろう?」
「千年女王にはテレビシリーズもあったから、あえてそれとは違う路線を狙ったのかもしれない」
「でも、テレビでつまらなかったから、今更映画なんて見ないという人も多かったのはないかな?」
「うん。そういう人は本当に損をしていると思うよ」
「ヤマトよ永遠にがつまらなかったから、同じストーリーのIIIなんて今更テレビで見ないという話とそっくりかもね」
「実際はまるで違う話なのにね」
「さらばと2の関係と同じだと思いこんでいる」
「だから、そこで全く違う話をやっちゃうのが映画的な発想だと思うよ」
「なぜだい?」
「やはり、見ている人をびっくりさせるのが映画の基本的なスタンスだと思う。君、こんなこと、予想もしてなかったでしょ? ということをやって舌を出すのが映画というものだろう」
「そうか。だから、都市帝国をぶち壊すと超巨大戦艦が出てきて驚かされるのか」
「ヤマトはテレビでやっても同じだよ。IIIだってさ、移住先を探していた話なのに、いつの間にかハイドロコスモジェン砲で太陽の異常増進を止める話に変わってしまう」
「そうか。だからラム艦長は出てきても、生意気な敵はラムでたたき割ってやるという船と競演する必要はないわけだね」
「だから今なら分かるよ。ラムちゃんの映画を監督した押井守の方が、むしろポジションとしてはヤマトに近い」
「映画大好き少年だったらしいからね」
「実写とアニメの境界はもう無いという言い方は、ジャンルを超えた映画好きだからこそ出てくる発言だと思うよ」
「ってか、なんだよラムラムって」
「別にラムちゃんにムラムラしているわけじゃないぞ」
「じゃ、ラム艦長にムラムラ?」
「ちがーう!」