「やっと分かってきたよ」
「なぜオタクは宮崎や押井やヤマトが理解できずに叩くのかってこと?」
「実はタイトルにそう書いたけど、実は嘘なんだ。タイトルはセンセーショナルである方が読まれるという理由でしかない。だから本当に語りたいことはそういう話ではない」
「というと?」
「もっと構造的に根深いものがあると分かってきたんだ」
「分かるように説明してくれよ」
「これは、コレクション型趣味と、一期一会型趣味の対立構造なんだ」
「へ?」
「いいかい。まずヤマトが始祖となってアニメブームが起こったという俗説をまず横に置こう」
「そもそもヤマトが最初というわけではなく、それ以前にも長い歴史があるわけだしね」
「そうだ。しかし、ヤマト全盛期の後で質的な大変化が起こっている」
「というと?」
「ビデオの普及だ」
「えっ?」
「日本テレビで夕方にやっていたおそらくヤマトの最後の再放送で始めて我が家のビデオが間に合って、録画を行った。結果的に無駄になったけどね。DVDの方を見てるから。今やテープもどこに行ったか分からないぐらいだ」
「うん」
「それに対して、ガ○ダムになると再放送全盛期にビデオが間に合ってる。まあ録画はしなかったけどね」
「それがどうしたんだ?」
「かつて、映画の現物を所有することは基本的にできなかった。テレビ番組もだ。それが過去の常識だった。映画俳優のブロマイドなどはコレクションできても、しょせん周辺の様々なグッズを買えるだけで、映画そのものはまず手に入らないし、入っても映写するのは恐ろしく難しい」
「うん。上映するのはたとえ16mmでも大変だ」
「それを言ったら8mmだって気楽ではないぞ」
「確かに。スクリーン用意して部屋を暗くしないといけないからね」
「録音はある程度できてきたが、しょせんは完全な所有にほど遠い。あくまで、周辺を押さえて気分を味わうレベルを超えられない」
「そうだね、肝心な映像は想像で補完するしかない」
「つまり、これは一期一会型の趣味なんだ」
「そうか。次の再放送がいつあるか分からないから、放送をしっかり見る訳か」
「映画もな。明日また来ようと思ったら金が掛かる」
「そうか。映像と接する態度が一期一会なんだね」
「うん」
「それで、それがどう変わったの?」
「映像そのものがコレクション可能になった時点で、映像作品に対するコレクション型の趣味が成立するようになった」
「それはどういう意味だい?」
「完全なコレクションを持つことが目的となる趣味だ。主たる対象は、ビデオから始まってレーザーディスク、DVD、BDとなっていく」
「でも見るものは同じなんだろう?」
「うん。でも、視聴態度が大幅に変わってしまう。いつでも巻き戻しや一時停止ができるんだ。しかも、手元にあるから何回でも好きなときに見られるんだ。これで昔のように真剣に見ると思うかい?」
「緊張感が大幅に減るね」
「それだけじゃないぜ」
「というと?」
「コレクション型の趣味は無時間的になるんだ」
「え?」
「コレクションに加わった作品はいつでも同じものが見られるとなれば、時間による変化という感覚が大幅に後退してしまう。だから、感覚が無時間的になるんだ」
「でも、本当に同じものが見られると断言できるの?」
「断言できない。見る者の感性が変化すれば、作品が違って見えるからだ」
「ということは? コレクション型の趣味の無時間性は崩壊してしまうの?」
「いいや」
「というと?」
「基本的にコレクション型の趣味では、コレクションを見ることはまずないし、真剣にも見ないからだ」
「ええっ?」
「だから、コレクション型の趣味とは、いつでも見られるから見るきっかけを持たない趣味なのだ。あるいはコレクションが目的であり、コレクションしたらもう見ないのだ」
「なんと」
「だから、最初にコレクションに加えるかどうか決めるために見たら、それっきりということも珍しくない」
「じゃあ、今の自分が見たら違う感想になるかもしれない、という発想は無いのだね?」
「うん、それが無時間的ということだ。既に分かってしまったことは分かっているから、それっきりアップデートする必要はないという発想だ」
「なるほど。見ないからアップデートしなくていいわけか」
「うん。実際に、間違いを懇切丁寧に説明してやったのに、10年ぐらいしたらまた同じ間違いを堂々と主張するオタクに会ったことがある。あの手間暇はいったい何だったのだと愕然としたが、要するにそういうことだ。無時間的だから、一度コレクションした知識をアップデートするという発想を持ってないのだ」
「そうか。その場では納得したふりをするけど、それは場の成り行きでしか無く、のど元を過ぎると熱さを忘れちゃうのね」
「これに対応して、正反対に位置するのが一期一会型趣味で、おそらく映画ファンが該当すると思う」
「というと?」
「依然として映画は所有できない」
「DVDを買うとかテレビで録画するとか、できるじゃないか」
「できるけど、旬を過ぎた作品ばかりになる」
「そうか。話題のホットな映画はそう簡単に所有できない訳か」
「それに加えて、劇場のあの設備は簡単に再現できない」
「音響もそうだけど、スクリーンもでかいよね」
「だから、たとえDVDが出ようとテレビで放送されようと、映画館で見たあの映画と同じ訳ではない。だから、映画を見るという行為は、劇場では一期一会になるだ。瞬間の真剣勝負になるんだ」
「なるほど」
「巻き戻しもできないし、一時停止もできない。ちょっと止めてトイレにも行けない。そういう環境に日常的に浸っているのがおそらく映画ファンだ」
「なるほど」
「さて、ここで問題が核心に入って行く」
「うん」
「まず、映像作品は、2つのタイプに分かれる」
「というと?」
「1回真剣勝負で見たらそれで終わりという前提の作品と、所有して何回も見ることで発見があるタイプだ。後者は、DVDなどの購入される映像ソフトが出てきた後で出てきたスタイルだ」
「なるほど」
「だから、映画やテレビは基本的に1回型だ。録画しているマニア以外は2回以上見てくれる保証がないからね」
「確かに」
「では、ここでコレクション型のマニアはどこに該当するだろうか?」
「えっと。ちょっと待ってくれよ。一期一会型が1回型と相性が良い。でも、コレクション型は複数回数再生型と相性が良いとも言えないぞ。コレクションするかどうか決めるために見たらもう見ないんだろう?」
「うん」
「ということは、どういうことなんだ?」
「答えは簡単。居場所がないのだ」
「いやちょっと待てよ。オタクってアニメ好きなんだろ? アニメは劇場やテレビでやってるんだろ?」
「しかし、作り手側が想定した受け手と、実際の受け手は一致しないことになってしまう。作り手は作った映像を真剣に見て欲しいと思っているが、コレクション型趣味の人は真剣に見る必要はないと思っている。あくまで、コレクションするかどうかを決めるだけでいい。後で何回でも好きなだけ見られるからね。実際は見ないけど」
「いや、ちょっと怖い考えになってきたぞ」
「そうだ。これは怖い話なんだ」
「つまり、作り手と受け手が恐ろしくミスマッチしていないか?」
「そうだ。そういう脆弱な関係の上に成立していたことになる」
「ってことは?」
「だから崩壊した」
「まだアニメはいろいろあるじゃない」
「あるけど、もはやブームではない」
「つまりどういうこと?」
「オタクは、僕らは客だから神様扱いしろと思っているが、送り手側は趣旨の分かってない迷惑なガキ共がまた来たと思って、あまり歓迎しないかもしれない」
「おお、なんというミスマッチ」
「従って、本当の意味で、宮崎が叩かれているのでも、押井が叩かれているのでも、ヤマトが叩かれているのでもない。問題の焦点はディスコミュニケーションだ」
「ディスコミュニケーションはどうすれば解消できるの?」
「実は極めて難しい。なぜなら、オタクはコレクションの中にある知識を持ち出して、それに合致しないことを根拠に正当な権利を奪われていると糾弾するが、それは古くて甘いから、実際とは違っている可能性が高いからだ」
「そうか。そこが無時間性の持つ問題ということだね」
「そうだ。無時間的な人間が正しいと信じる根拠は、しばしば相手に意味をなさない。そんなカビの生えた昔の話を持ち出してどうするの?と思われる場合もある」
「なるほど。コレクションは永遠不変でも、世の中は変わってしまうものね」
「だから基本的な処方箋は無時間性の脱却ということになるかな。それができて始めてコミュニケーション可能な領域に入れるがこれは難しい」
「なぜ?」
「コレクションの価値はどんどん時間とともに落ちていくという認識と表裏一体だからだ。これは、コレクションの価値を信じてコツコツ構築してきた人に言っても受け入れがたいだろう」
「自分の人生の否定になっちゃうからね」
「もちろん、コレクションだけに命を捧げるという生き方はあって良いのだけど、もちろん無時間的な感覚では成り立たない」
「そうか。コレクションの価値は本来時間と連動している訳か」
「うん。極端に古いとかえって価値が高いとかね」
「いずれにしても、無時間性の克服か」
「そうさ。だってそれを克服しないと言えないだろう?」
「なんて?」
「人類滅亡と言われる日まであとXX日!」
「おお、なんと有時間的!」
「いや冗談ではなく、忘れ物を取りに地球に戻れない一期一会感ってのはあると思うぞ」
「その緊張感こそヤマト第1シリーズだね」
余談 §
「ちなみに、おたく大統領で最後の悪として出来るアキバ星人。こいつは全宇宙の秋葉原をコレクションするが、コレクションしたらもう見ないという嫌な奴だと言われる。まさにそういう話だろうね」
「そうなの?」
「作者はビデオ以前の時代にラジカセでせっせと録音したというエピソードも描いているから、きっとそうなんだろう」
「なんか昨日書いた話題と公開する順番間違えたね」
「ははは、気にするな」
余談2 §
「そういう意味で言うと、ビデオの存在が夢の機械から単なる前提に変わった瞬間というのは、おそらく板野サーカスなのだろうと思う」
「マクロスとかだね。確かにあれは、密度が高すぎて録画してスローで見ないと分からない。しかも、スローで見てすら何回も見ないと分からない」
「うん。巻き戻しができるだけではなく、ポーズやコマ送りも含めたトリック再生があって始めて成立する映像なんだろう」
「ドリフが、こ・ま・お・く・り・も・で・き・ま・す・よ、と宣伝した後の世代にのみあり得るわけだね」
「ドリフとはまた古いね」
「ところが、板野サーカスが人気を博して、宮崎、押井並に板野一郎の名前が世間で評価されているかというと、そうでもない」
「というと?」
「人気はあるけど、どうも本人と人気がマッチしていない」
「確かに、そんな感じなのかもね」
「だから、単なる一過性の映像の刺激としての板野サーカスに人気はあるのだが、板野一郎監督作品に人気があるわけではない」
「そうか。分かったぞ。ここでもミスマッチがあるわけだ」
「うん。だからさ、板野サーカスの見た目のわかりやすさは歓迎されているけれど、板野一郎が監督した代表作とも言えるメガゾーン23 PART IIでやったような作品表現の方法論は支持されない。たとえば同じシリーズの作品なのにキャラデザが違うというのは、1つの方法論としてありだが、実はオタクの世界ではあまり通用していない。しかも、あれは基本的にバイクだから、顔が見える主役メカなんだ。まあ確かにロボに変形すると顔が見えないわけだが、クライマックスシーンではそれを逆手に取って、実は別人が乗っているというトリックまで仕掛けてくる」
「矢作? 誰のことだ。しらねーな!」
「千葉繁さんの怪演だね。でも、そう喋るときは既に顔が見えているんだ。しかし、ロボは乗る人間が決まっているというお約束を遵守していない。クライマックス対決シーンなのに、最後の最後で主人公はロボに乗ってないのだ。主人公は戦わずすり抜けて行ってしまうが、主役ロボは負けちゃうのだ」
「お約束を遵守していないという意味で、あまりオタク向けではないね」
「だから、続編のIIIの監督は別人になってしまうのだろう。IIは常識を否定しすぎた」
「そうなのかな? IIは面白かったぞ」
「ロボにもオタクの常識にもさしたる意味なんてないのだ、と思えばIIで良いわけだし、けっこう好きだったのだが、オタク相手のビジネスでは良くなかったのだろう」
「実写なら、同じ配役を別の俳優がやるのはよくある話だけどね。そもそも年を食ったらもう同じ配役はやれないわけだし」
「でも、アニメだと声優交代というだけで大騒ぎだ」
「声優は顔が見えないので、年齢がいっても同じ役がやれたりするしね」
「でも、それにはある程度の限度というものがある」
「確かに。しかし、新しい誰かに、この役をやらせてみようという発想は無いわけだね」
「世間一般ではそういう発想があるが、オタクの世界では希薄であるようだ」