「ハウルと古代という文章を書いてからかなり時間が経つ」
「公開したのはつい昨日だけどね」
「でもさ。公開したあとであれあれ?と思った」
「何を思ったの?」
「ハウルとヤマトの類似性というのは、ハウルというキャラと古代というキャラの類似性にとどまらない」
「というと?」
「実は、見ず知らずの他人が集まって家族のような関係を築くという意味で両者は同じなんだ」
「そうか。ハウルの動く城はハウルとソフィーの恋愛話であると同時に、血の繋がらない子供と老人と犬を抱え込む映画でもあるわけだ」
「みんな、居心地がいいから集まっちゃうわけだね」
「ハウルやソフィーは家族にしたい人物なんだよ」
「そうか」
「一方でヤマトも同じ。沖田と古代は父と息子のようだし、真田は古代を弟のように感じられる」
「血の繋がらない他人なのにね」
「ハウルと古代を中心に人間関係が形成されていくわけだ」
「でもさ。ハウルの動く城の大砲はダミーだけど、ヤマトは火を噴くよ」
「そこがポイントさ」
「というと?」
「だからさ。ヤマトにとって戦闘は本質的に重要ではないわけだ」
「張りぼてでも本当の兵器でも関係ないということだね」
「そうだ。だから重要なのは、山本機とソフィー機はヤマトと動く城に突っ込んで帰還することなんだよ」
「そうか。重要なのは、最後に突っ込んで迎え入れるという点にあるのか」
「帰るべき家ということだね」
「波動砲とハウルの癇癪も同じなんだ。破滅的な状況が引き起こされる」
「そうか。もう大砲が火を噴くかはどうでもいいことなんだね」
「あとさ。好戦的な王様に逆らい続ける構図も似てるよね」
「でも、黒幕のサリマンに相当するキャラがヤマトにはいないね」
「いやいや。サリマンはサーベラーだよ」
「王様を迷わす亡国の女だね」
「本来飛ばないはずのヤマトが飛ぶことと、本来動かないはずの城が動くことも同じ。魔法のドアで違う場所に一瞬で行けるのはワープと同じ」
「すると、ハウルの動く城こそが、実は宮崎版ヤマトだったというオチなのかな」
「だって古代君が死んじゃうと頑張る雪のように、最後はカルシファーに髪の毛を食べさせてハウルを救いに行くソフィー」
「そうか。ヤマトを救う戦闘面での行動に雪が関わるのはこれが初めてであり、実質的に戦うヒロインやっと登場という感じだが、ハウルもそうだね」
「髪の毛を切ってやっとナウシカ登場だ」
「そうか。そういう意味でも似てるわけだね」
「あと、ハウルも水上の戦艦に空中戦艦も描く。ヤマト的なモチーフの中で、動く城に収まらなかった要素が投影されているとも考えられる」
「そうか。あの戦艦沈んじゃうものね」
「父ちゃん、発動機の音が……と言わない民衆の前で沈む戦艦」
「しかも空襲で沈むのだ」
「第1シリーズ第2話の過去話と同じパターンだね」
「あと空中を歩くという描写も、宇宙なのに上下があるのはおかしいという話と同じ屁理屈で攻めやすい部分だ」
「物理的にあり得ない話だね」
でもさ §
「おそらく初期の宮崎アニメでは、たとえば未来少年コナンのガンボートにヤマトが投影されているような気がするな」
「でも、爆破されて沈んじゃう」
「実は、浮かぶ要塞島!!たった二人の決死隊!!と似ているわけだよ。少人数で入って爆破するが人は残るわけだ」
「そうか。ヤマトみたいなものを沈めたつもりが、実はヤマトの宇宙要塞13号破壊と似ている訳か」
「一回りしてヤマト的な世界に回帰するがけしてヤマトに交わることはないのが宮崎アニメかもしれないよ」
「それでもやはりハウルはヤマト的なのかもね」
「うん。そういう視点で見るとけっこう興味深いぞ」
「ヤマトを戦闘的な右翼アニメだと思っている人たちは想像もできない見方だろうね」
「実際は、戦闘シーンなんてなくてもヤマトは成立するんだ。戦闘そのものは映画を盛り上げるために必要だから存在するのであって本質ではない」
「そうか。だから、大砲をぶっ放すラピュタの次に大砲なんて出てこないトトロが作れるわけだね」
「壮絶な冥王星の決戦のあとで単に地球と通信するだけの話が作れるのだとも言える」
「でも、ガ○ダムは戦闘のないエピソードを作れない」
「必ず戦闘が起こってしまう。スポンサーへの過剰サービスだ」
「やはりそこか」
「うん。ここに1つの境界線があって、ヤマトと宮崎アニメはこっち側だが、ガ○ダムはあちら側だ」