「うかつだ。今になってようやく分かった。今と言っても書いたのは一ヶ月ぐらい前だけどね」
「というと?」
「おいらは、読んだ本を処分する。特に資料として後から活用する予定がないものは基本的に処分の対象だ」
「うん」
「だからさ。単に思い入れがあるというだけでは保存対象にしない。思い入れがあるのに処分した本も多いぞ」
「それで、それがどうしたの?」
「まあまあ、話はまだ長い。まずは、おいらの価値観を話そう」
「というと?」
「おいらからすれば、本をため込む人より、処分できる度胸のある人の方が偉い」
「なぜ?」
「いくら思い入れがあっても、見ない本をため込んでいても邪魔になるだけだ」
「そうか、むしろ美しい思い出として心に残す方が良い訳か」
「ああ。そうだ。読まないなら現物があってもなくても同じだし、むしろ無い方がすっきりしていい」
「その話がどこにつながるの?」
「いやね。昔の体験談だよ」
「何があったの?」
「読み終わったコミック数冊を知人にばらまいたときの話だ」
「それが処分方法?」
「処分方法の1つだね」
「それで?」
「大変に驚かれたことがある。当時の私には分からなかった。相手は、知識として本を処分するタイプの人間がいることは知っていたようだが、実際にそういう人間に遭遇すること、あるいは私がそういうタイプの人間だということに、非常に驚いていたようだ」
「なぜ驚くの?」
「今なら何となく分かるぞ。オタクは典型的なコレクション型であり、相手はオタクだったのだ。そして、私もオタクだという錯覚を持っていたのだろう。従って、オタクならほいほいと読み終わったコミックを他人にあげちゃうようなことはしない」
「それは痛い誤解だね」
「うん。こちらはオタクじゃないし、オタクになろうともしてない。一見、隣接しているかのように見えるが、実は水と油ほども違う。強引に混ぜようとしても分離してしまう」
「そうか。なるほど、そういう話か。じゃあ、それが結論だね」
「いやまて。それで終わったらヤマト感想にならない」
「おっと、とことんヤマトの話をするわけだね」
「さらば宇宙戦艦ヤマトに話がつながってくる」
「どこでつながるんだい?」
「さらば宇宙戦艦ヤマトの地球というのは、基本的にコレクション型なんだよ」
「ええっ?」
「各惑星の資源が持ち込まれ、波動砲装備の戦艦だけでも全世界に数十隻」
「なるほど。集めるだけ集めて抱え込むとは、コレクション的だね」
「本当に波動砲装備の戦艦が数十隻も必要かというと、それは怪しい。波動砲は一発で惑星すら壊滅させられる威力があるのだからね。万が一ということを考えても数隻あれば十分だろう」
「白色彗星には通用しなかったけどね」
「ところが、撃ち方を工夫するとヤマト1隻でも通用してしまったのだ」
「つまりどういうことだい?」
「さらば宇宙戦艦ヤマトは、コレクション型を痛烈に批判している映画でもあるんだ」
「そうか、だからコレクション型のオタクとは相性が悪いわけだね」
「うん。コレクションが善だと思っていないおいらは別になんとも思わないが、オタクの趣味はここで痛烈な批判に晒される。オタクのヤマト離れが進行するのも当然だ。批判されて喜ぶわけがない」
「じゃあ、コレクション型の対極は何だろう?」
「体験型だと思う。持っていても見ないなら意味がないと思うことは、要するに体験に意味を見出しているのと同じだ」
「じゃあコレクション型は?」
「見なくても見られる可能性、あるいは持っていることそのものに意味があると思うタイプだ」
「そうか。つまり、テレサからの通信をコレクションに加えて、より強くなったと思うのがコレクション型。テレサから直接話を聞くために航海していくのが体験型というわけだね」
「うん、でももう1つ話題がある」
図書館という問題 §
「体験型とコレクション型の決定的な差異は、図書館に対する態度で現れるのだろう」
「というと?」
「実は、ソノラマ文庫の石津嵐版ヤマトは図書館で借りて読んでいるんだ。その前に、ハードカバーも友達から借りて少し読んでいるけどね」
「それで良かったの?」
「当時はそれが理想とは必ずしも思っていなかったかもしれない。子供でお小遣いが足りないからやむを得ず図書館を利用したに過ぎないとね」
「うん」
「でも、そうじゃない」
「というと?」
「絶対に買ったら破綻する。ヤマトはソノラマ文庫の最初の1冊でしかないし、他に早川とか創元とか新潮とか角川とか無数に文庫はある。それ以外にも本は多数。これを全部買えると思うかい? いや買えるとしても、保管スペースを一生維持する価値があると思うかい?」
「それは難しいね」
「だからさ。いたずらにコレクションを増殖させていくよりも、図書館から借りて読んだ方が絶対にお得なんだよ。なにせ、購入コストも保管コストも0だからね」
「そうか。ソノラマ文庫のヤマトだけでなく、宇宙海賊船シャークから軍艦泥棒、はては加納一郎のユーモアまで読めたのは図書館のおかげか」
「そうだ。図書館のおかげだ」
嫌ヤマトという問題 §
「しかし、意図せぬ収穫は、なぜ嫌ヤマトという状況が発生するのかという原因の一端を明らかにできたことだ」
「ヤマトはコレクション型を痛烈に批判するので、そういうタイプの人はそれを嫌うということだね」
「より厳密に言うと、ヤマトがコレクション型を批判しているのは何となく分かるが、オタクとはコレクション型であるという認識と結びついたとき、始めてオタクがヤマトを嫌う理由が見えて来た感じだ」
「なるほど」
「彼らからすれば、おまえら悪でバカだろ、と言われたに等しい。それで喜ぶわけがない」
「そういう風に言ってしまうのもうかつではないのかな? 無駄な波風を立てている」
「必ずしもそうではない。ヤマトは少数のマニアを満足させるために作っているわけではないからだ。というか、そもそも映画というのは曖昧に想定されるマスのために作られるものであり、客に応じて中身を変化させることは無い」
「客に合わせてノリを変えるライブ感覚は不可能ということだね」
「うん。客に合わせて俳優を呼んでその場で撮り直しなんてこと、出来るわけがない」
「ということは?」
「別にヤマトがうかつというわけではない。ただ、正義の味方気取りの優秀なつもりのアニメ少年が見に行くと火傷すると言うだけだ」
「火傷してどうなるの?」
「本当なら大人への階段を一歩上がる」
「自分が世界の中心ではない、と知るわけだね」
「普通の人はね」
「でも、そうでも無い人もけっこういるみたいだね」
「徒党を組んで悪口を言って、自分たちの問題をヤマトに責任転嫁しようとする」
「とことん、現実を否認したいわけだね」
「うん。客として想定されている多数派層が自分たちとはまるで違うという認識がすっぽり抜け落ちている」
「話はそれで終わり?」
「ちなみにヤマト復活編の感想を今頃書いている人がいて偶然見てしまったけど凄かったよ。いろいろな点を違うと批判しているけれど、どれもずれている」
「どういうことなんだろう?」
「ヤマトが好きで誰よりも素晴らしい理解者の俺が望むとおりのヤマトじゃないからダメだと言いたいのだろう」
「でも、理解してないんだろう?」
「その通り。復活編がなぜああいう内容であるか考えようともしないから、自分が理解者だと思い込んでいるだけで実際は理解していない。まあヤマトに限らずよくあるパターンなんだけどね」
「そんなに多いの?」
「うん、昔から多いぞ。たとえば、セイントテールがつまらない、ぜんぜん分かってないと言うのでよく話を聞くとセーラームーンと違うからダメだとしか言ってない。違う面白さを求めた違う作品だということが理解できなかったようだ。世界はそういうミスキャストで一杯さ」
「なるほど」
「ちなみに、映画をたくさん見るようになって良く分かったけどさ。映画というのは、予想を裏切る驚きを入れるのが基本だ。そうしないと退屈だからね。そもそも映画は予想と違わない答え合わせのために見るものじゃない」
「あれ、ってことはさ。俺の思ったとおりの映画が上映されることを期待した客はそもそも常に期待を裏切られるってことじゃないの?」
「その通り。まず映画を見る態度そのものに問題があると言える。ヤマトがどうのという話より前にね」
YAMATO2520問題 §
「YAMATO2520がなぜ失敗したのかという問題もこの延長線上にあるのかもしれない」
「というと?」
「YAMATO2520はOVAであり、OVAとはコレクション型の商品だからだ。一方で伝統的なヤマトはTVシリーズか劇場版だ。TVシリーズは基本的にコレクションされないし、劇場版も後からソフト商品化されない限りコレクションできない」
「テレビは録画できるじゃないか」
「TV第1シリーズの時点でまだビデオデッキは未普及だ」
「そうか、ラジカセは前提にできてもビデオは前提にならない訳か」
「うん。ビデオ普及はヤマト2の頃から進んで、やっとヤマトIIIで整備されたと思うべきだろう」
「じゃあ、2520だけが異質なわけだね」
「うん。テレビでも劇場でもない何回でも見られることが前提の最初にして最後のヤマトだ」
「なるほど。OVAという形式がヤマト向きじゃなかった訳か」
「実際のYAMATO2520は、実はOVA的なフォーマットに乗っていない。典型的なOVAが30分1話完結で6話とか13話で構成されるのなら、YAMATO2520は1話がもっと長く中編連作映画的な構成になっている」
「でも、それが理解されていたとは言い難いね」
「うん。最初からイメージで排斥されていたようだ」
「じゃあ、YAMATOは売れないというのではない?」
「うん。たぶん売り方を間違ったのだと思う」
「じゃあ、劇場に帰ってきた復活編は……」
「たぶん売り方を間違ってはいない。スクリーンの一期一会としてヤマトが出てくるなら、それはコレクション型よりも体験型なんだろう」
「その割に君はBD買ったね」
「資料として使うからね。別にBDコレクションを作ろうなんて思ってはいないよ。それに……」
「それに?」
「BD体験を試みるという要素もあるしね」
「コレクションじゃなく体験か」
更にオマケを §
「宮崎駿が最近の若いアニメータは体験が少ないので、同じように描けないと嘆いている問題も同根かもしれない」
「そうか。これだけ多くの素晴らしい知識のコレクションを持ったグレートな僕がジブリで頭角を現して認められてやろう、というタイプはむしろコレクション型になってしまい、経験に頼る比率が下がってしまうのか」
「そうだ。だから、やはりこちらは第1世代の尻尾なんだ」
「ヒトラーの尻尾ではないのね」
「第1世代の尻尾なんだよ。こちらも体験を重視するからね」
「そうなの?」
「だからさ。こちらが、こんな新しい驚くようなものを見てきたよ、という話をしているときに、カビの生えた古い知識のコレクションで反論されると腹が立つね。だって、相手は現物を見てないから反論出来るわけがないのに、反論してくるんだよ」
「その反論はやり過ぎだね」
「そうだ。そんなものはあるはずがないと言われても見てきた以上何かは見えたんだよ」
「理屈で経験は否定できないね」
「経験の解釈は理屈で否定できるかもしれないが、そのためにはまず経験を肯定しないとならない」
「UFOを見たと言っている相手に、君が見たものはUFOじゃないと説得することは見ないでもできるね」
「でも、それは見たという経験をまず肯定しないとできない話だ」
「そうか。経験そのものが否定されちゃ、腹が立つよね」
「そんなに言うのなら、自分で見てこいと言うけど、まず見に行かないしね」
「それじゃ、何も解決しないね」
「無理に連れて行っても、別の理屈をごねてあやふやにするだけ」
「解決しないどころか、その手間そのものが無駄だね」
「うん。でも、それは典型的な事例なんだ。そういう奴は意外とあちこちにごろごろ存在する」
「でも、君はそれで孤立しちゃうね」
「いいんだよ。だってそれは、地球に戻ったヤマト乗組員が体験が違いすぎて孤立してしまうのと同じ話なんだ」
「結果として英雄の丘に集まってのんだくれて愚痴言って上空を通過するアンドロメダにばっきゃろーと叫んで」
「でも、結果として地球を救ったのはアンドロメダでも多数派でもなく、少数派のヤマト乗組員だから、どちらになりたいかは明らかだろう」
「ヤマトカクテルを作らせても飲む前に死にそうだけどね」