「ちょっと興味深い話になってきたぞ」
「何が?」
「これを見てくれ」
「これがどうした?」
「以下の部分を見てくれ」
そしてよく考えると、現実社会の中でダメなことを、マンガやアニメの中で描くことを禁止するというのは、明らかに論理が破綻してるんです。でも、一見すると「たしかにそういった行為は許されない。だから漫画でも同じく許されないだろうな」と思ってしまう。これは非常にうまい、と感じました。
「やってはならないことは、やったらダメ。でも、フィクションの中で描くのなら実際には誰もやらないのだから、被害者はいないわけだよね。どこにも被害者がいない行為を禁止しても誰も救済されない」
「そうだ。常識的にはそう読める」
「どういう意味?」
「実は逆から読むべきではないか」
「何がいいたいわけ?」
「『論理が破綻している』のではなく、この論旨に破綻がないように現実の方が変質してしまったのではないか?」
「ええっ!?」
「つまりさ。もうこの世界に、現実と虚構の境界線は無いんだ。虚構の行為と現実の行為に差はない」
「まさか。だって、実際に加害者と被害者が存在しないんだぜ、フィクションでは」
「だからさ。現実世界の異常者のニュースだって、ほとんど全ての人からすればモニターの中に見る映像でしかないんだ。フィクションもやはりモニターの中で見る映像でしかない」
「どちらも等価だって言いたいわけ?」
「じゃあ、逆に質問しよう。ラジオで宇宙人襲来の真に迫ったニュースが流れたとしよう。はたして、これは現実かドラマか区別がつくかい?」
「つくだろう。普通は。だって、宇宙人襲来なんてあり得ないだろう」
「君の答えは間違いだ。実際に、ドラマの中のニュースを現実ではないかと思った人が大勢いたらしい。1938年のオーソン・ウェルズの『宇宙戦争』という実例がある。パニックの存在は疑われていたらしいが、『全国の警察に膨大な量の問い合わせの電話があったことは事実である』のだそうだ。つまり自分では判断に自信を持てず問い合わせが必要だったということだろう」
「おいおい。まさか。そんな馬鹿なことが……」
「ラジオなどのマスコミは、十分に統制されているから、そういう間違いはそれほど起こさないだろうが、もっと統制のゆるい出版界だとか、統制など無いに等しいネットの世界まで見ると何が起こってもおかしくない。実際に、都市伝説レベルの話が堅く信じられている事例はネットにいくらでもある」
「都市伝説を暴くサイトもあるじゃない」
「ははは。『それ間違ってる』と指摘するサイトがあっても、見る気がなければ無いのと同じだ。あるいは、間違った主張をしているアンチサイトだと思って潰しに掛かるかね」
「酷い話だな」
「でも、少なくともネットの現状はそういうものだ。つまり、ここに虚構と現実に間に明瞭な境界線は存在しない。少なくともモニター越しに見ているだけの一般人は区別できない。従って、規制される際に、現実と虚構を完全に線引きすることはできないし、区別する意味も無い。見て不快なものは制限せよという論調になったとき、それが現実であるか否かは何の意味も持たない。被害者の実在も意味を持たない。モニターから見える世界には関係無いからだ」
「そういう世界が君に望みかい?」
「いいや。そんな世界は面白くも何ともない」
「なぜ?」
「思いつきで絵に描いた世界とは、常に現実に負けてしまうからだ」
「事実は小説よりも奇なりってことだね」
「それなのに両者を等価として扱ってしまうのは、小さい方に合わせるということで、面白さが減る」