実は、目から鱗が落ちまくり。
- 玉川上水の一部は既存水路であるという一部の書籍等にあるアイデア
- 桜上水Confidentialさんの神田川人工流路説の一連の文章
- 新・元玉川上水下高井戸分水上流部仮説によって、ヒミココート脇の板暗渠が北沢川支流の上流部では無いかもしれない、というアイデア
そして、てさんの以下のメッセージです。
こんばんは。
このアイデア面白いですね。
私、実は暖めていたアイデアがあります。
玉川上水、甲州街道の開通時は、現在と違うのでは…と言う事です。
流れの早い玉川上水の水に、この時代の土木技術で、この周辺のカーブが耐えられるのか?!
甲州街道、高井戸宿が作られる前は、どうだったのか?!
やはり、北沢川、滝坂道がそこの主に存在していたのでは?!
と、考えて行くと、川俣さんのアイデアにも繋がるのでは?!
桜上水の伝説に影響され過ぎですかネ。
「このカーブは不自然である」と言われると、確かにそう言えなくもありません。以前は、地形の高低差を上手く利用した水路と思っていました。しかし、できれば避けたい流路形状と言えます。
では、本来はどこにどう繋がっていたのか。
井の頭方面から上北沢方面まで、多少は曲がっていますが大まかに言えばほぼ直線でここまで来ています。ですから、ここからほぼ直線で延びていたと想定します。すると、松沢教会と松沢幼稚園の間の北沢川支流後にそのまま接続してしまうではありませんか。
実はこの想定にはもう1つメリットが §
この想定にはもう1つ凄いメリットがあることに気づきました。
北沢用水の最初の分水口が屈曲部の前後にあるとすれば、原玉川上水の直進水路そのものです。つまり以下の通り。
- 井の頭の水を上北沢に引くための原玉川上水が存在した
- 原玉川上水は井の頭の水源のいずれか(井の頭の池とは限らない)から始まり、北沢川支流の1つの上流部に接続されていた
- 玉川上水は、この水路を利用して井の頭から上北沢付近まで水をつないだ (拡幅等の改良は行ったかも知れない)
- そのままでは江戸市中に水が届かないので、上北沢交差点付近で分岐して四谷大木戸を目指す水路を新規に開削した
- その結果、上北沢交差点付近では水路のY字分岐が発生することになった
- 本来本流であった北沢川に接続するラインは、分水扱いで残存した
- 1653年玉川上水完成、1658年北沢分水成立という5年のタイムラグはとても小さい。あらためて水路の建設を検討して設置して運動して許可を得た結果というよりも、既存の水路があったと考える方が自然
- 北沢用水分水口移動の根拠が出てくる。上北沢所有の水路ならどこからでも自由に水が引けるが、幕府の水路になるとできない。より上流から引き直す必用が生じる
細かい部分では §
実際の高低差の検討などを含めるといろいろまだ問題がありますが。それはそれとして、原玉川上水の菅がおぼろげながら見えてくるアイデアなので、少し考えてみたいと思います。