「既に、さほど細田守には興味が無いと言っていたのでは無いか?」
「そうなのだが、一応チェックしないとダメだとオレのゴーストが囁くので、見に行った」
「結果はどうだった?」
「いろいろな意味で面白かった」
どれで感想は? §
「いろいろな意味で面白かった」
「簡単にいうと?」
「5つの野心が見えた」
- 「ジブリを食ってやるという野心」
- 「マンネリを打破する野心」
- 「本当の意味で良質な映画らしい映画をつくる野心」
- 「ケモナーの本性を隠さない野心」
- 「対象年齢を上げていく野心」
- 「(富山の自然を描く野心)」
「5つじゃなくて6つもあるぞ」
「最後の1つは括弧付きだ」
「説明してくれ」
「順番は変えて説明する」
「マンネリを打破する野心」 §
「細田映画には電脳空間ないしそれっぽい空間がつきもの。デジモン以来ね」
「それで?」
「今回は、その描写が一切ない。その他にもいろいろな意味で、過去の細田らしさをあえて封印してストレートに勝負する心意気が見えた。なんだ、サマーウォーズってぼくらのウォーゲームじゃないか的な批判に正面から反撃したものだろう」
「それに意味があるの?」
「少なくとも、見るに値する映画にはなった」
「対象年齢を上げていく野心」 §
「実は主要な細田映画を見ていると、他者がキャラを作ったワンピース映画のような例外を除くとデジモン映画以来徐々に主人公の年齢が上がってきていることが分かる。デジモン→ぼくらのウォーゲーム→時をかける少女→サマーウォーズで上がってきている。そして、ついに親世代まで主人公の視点が上がってしまったのだ」
「それが野心的?」
「そうだな。子供の客層よりも、もっと上の年代を意識して大人の映画になろうとしている。これは野心だろう」
「ジブリを食ってやるという野心」 §
「ボロの田舎の家に家族3人で引っ越すのはまるでトトロ。森の主に会いに行くのは、まるでもののけ姫。比較的高年齢の若い娘が田舎に引っ越して農業をやるモチーフは、おもいでぽろぽろ的とも言える。そういう意味で、ジブリ的なモチーフを持ち込みながらそれを自分の映画のパーツとして取り込んで咀嚼して見せたのがジブリへの挑戦だろう」
「えー」
「たとえばさ。片親と子供2人で人が住んでいなかったボロ屋に引っ越す。そこで、雪は、メイとサツキの両方に相当する。幼いときはメイ的であり、成長するとサツキ的になる。親の性別が違うので、地元のおばあちゃんのかわりにおじいちゃんが出てくる。そして、カンタ相当の男の子が出てきて、傘を押しつける代わりにお見舞いの品を押しつけてくる」
「そうか」
「親子3人で自転車で走るシーンとかもあるしね。風呂場も出てくる」
「でも、それはジブリ大好きトトロ大好きではないの?」
「違うな。全体的に見ると全くジブリ的になっていない。あくまで飲み込んで見せたものだろう」
「なぜ?」
「ハウルの怨み思い知れ!」
「えー」
「そうそう。おおかみになるか人間になるかで悩むというのは、もののけ姫の『森とタタラ場、双方生きる道は無いのか』に相当するけれど、この映画は二者択一で、ドライに割り切られてしまう。もののけ姫ではサンがアシタカにところに通う事で、棲み分けが曖昧になって終わるが、この映画では明瞭に生き方が選択的で、曖昧さは無い」
「それでいいの?」
「親から離れていく息子というモチーフと複合されて破綻無く処理されている」
「本当の意味で良質な映画らしい映画をつくる野心」 §
「この映画の特徴は、クライマックスで本当の意味で事件らしい事件が何も起きないことだ。ミサイルも落ちてこないし探査機も落ちてこない。最後のタームリープも行われない」
「えー」
「しかし、そもそも最初のデジモンの映画だって、一見巨大デジモン同士で戦って派手に見えるが、真のクライマックスは妹が吹けないホイッスルを兄が奪って吹くシーンにある。そういう意味で、表面的に派手なシーンで誤魔化さない心意気が見える」
「それが本当の意味で良質な映画らしい映画ってこと?」
「映画は終わるべくして終わるように作られるべきだが、そういう意味で正しく終わっている。探査機が落ちてくるよりこっちの方がいい」
「ケモナーの本性を隠さない野心」 §
「ケモナーって何?」
「獣キャラ好き」
「意味が分からないよ」
「実はサマーウォーズのテレビ放送を見ていてハッと気づいた。ヒロインのアバターは獣耳なのだ」
「そこからおおがみこどもにつながるわけだね」
「それだけじゃない。キングカズマはウサギキャラだし、アバターの多くも動物キャラだ。オズの世界をぐるぐる回っている守護者は鯨だったりする」
「えー」
「そう思って見ると、最初のデジモンの映画は、デジモンが獣として解釈されている。人間の言葉をぺらぺら喋るのはコロモンだけで、あとの進化形態では喋らないし。しかも、重要な役割で猫が出てくる。コロモンが猫に負けてしまうのだ」
「ぼくらのウォーゲームは?」
「メタルガルルモンなんて、もう完全に獣形態だよ」
「ひ~」
「だから、あえて断言しよう。細田守は隠れケモナーだっ!」
「今回の映画はカミングアウトだってことだね」
「(富山の自然を描く野心)」 §
「なぜ括弧付きなの?」
「まあ個人的だからな」
「監督が富山出身?」
「いや、自分の母親が富山出身。子供の頃に何回か富山に行ってる」
「えー」
「冬になると雪がつもる世界だよ」
「そこかっ!」
「実は冬に行ったことは無いのだけどね」
「えー」
「山並みは立山連峰かねえ」
まとめ §
「うん。感想を書いていて分かった」
「何が?」
「細田監督は、監督デビュー作の無印デジモン映画にまで戻って、そこからデジモンを引き算して、より作りたかった形態として映画を作り直しているのだ」
「たとえば?」
「無印デジモン映画というのは基本的に兄と妹の話。そこにデジモンと父母が絡む。兄がナレーション的に語る」
「それで?」
「この映画は、姉と弟の話であり、姉がナレーション的に語る。時間にゆとりがある分だけ、父母の描写が多くなり主人公化するが、しかし語り手はあくまで姉。しかも両者とも未来の立場で語る。『だからここにいる』と成長後の兄がナレーションで語るデジモン映画に近い構造だ」
「なるほど」
「でも、映画としては全くの別物になっている。結局やばいものが自分に向けて落ちてくるというという『ぼくらのウォーゲーム』のモチーフを反復しただけの『サマーウォーズ』とはそこが違う」
余談 §
「それでだ。この映画は日本テレビがバックであるという点で、ジブリの補完的な位置づけに見えてくる。そこも面白い」
「ジブリは永遠では無いということだね」
「宮崎駿が作れる映画はあと何本あるか分からないし、しかも製作ペースは落ちていく。後継者はネームバリューを確立できていない」
「そこで、ジブリの外でジブリ的な映画を上手くやる誰かに対するニーズがあるわけだね」
「そうだ。しかしセカンド・ジブリは要らない。それで良ければ、ジブリのテコ入れをすれば良いだけだ。違う何かを模索する動きがこういう映画に行き着いたのだろう」
「それで?」
「成功して欲しいと思う。成功すれば、細田監督はデジモンとかそういう商品的な要素抜きで好きなように映画が作れる」
「それに意味があるの?」
「おそらく、サマーウォーズに溢れるぼくらのウォーゲーム的な描写の数々は、『成功した過去の映画の2番煎じにしか資金が出てこない』状況での妥協の産物なのだろうと想像するから」
「えー」
「でも、それじゃ映画はつまらんだろ」
「なぜそこまで映画にこだわる?」
「そもそも無印デジモン映画からして、テレビシリーズの企画がこけても単体の映画として成立している映画にしようという心意気が濃厚に見えた。けしてテレビシリーズのファン向けになっていない。単体で見ても価値があった」
「それがいいの?」
「そうさ。映画の客は予備知識があるとは限らない。でも金を取る以上は、それ単体で価値を生まねば。それが正しい映画のあり方だ」
「まず本当の『映画』で勝負できるフィールドに立つ方が先ということだね」
パンツだ §
「そうそう。小さい雪がパンツを丸見えにするのは、パンダコパンダ的だよねえ」
「えー」
「でも、これみよがしに演出しないでサラッと流してしまう。その先に行くという決意表明なのだろう」
建物だ! §
「しかし、建築物の描写は凄くいい。新しいマンションもいいし、年季が入った大学の建物の内装もいい」
「建物趣味かよ」
「そこはジブリと相通じる不思議な部分だ」
追記 §
「何を追記するんだよ」
「その日の夜にデジモンとぼくらのウォーゲームのDVDを見ちゃったけどさ」
「それで?」
「ぼくらのウォーゲームで重要なことを忘れていた」
「なに?」
「必死に太一と光子郎が必死にパソコン画面を見ているシーンで、後の猫も一緒になって見ているんだよ。猫がそこにいる意味などあまりないけど、猫がいるのだ!」
「猫かっ!」