発端 §
とある人がキャンディ・キャンディを語るので、ちょっと気になったわけです。
自分にとってもキャンディ・キャンディは理解できない謎の多い作品でした。
全てでは無いにせよ、子供の頃にコミックとアニメを見ています。
しかし、改めて大人の目で読み直そうと思ったら、コミックの価格が高額でとても片手間で買える価格ではありません。
というわけで、子供時代のうろ覚えと、WikiPediaの記述だけを頼りに軽く分析してみます。
前提 §
- レディ・ジョージィのことは忘れる
- 基本的にコミック版を前提とし、アニメ版は援用するだけにとどめる
- コミック全巻は読んでいないし、忘れてしまったことも多いが、そこは妥協する
作品のテーマ §
キャンディ・キャンディが全体として言っていることは、【丘の上の王子さま】の不在です。
大まかに言うと、【丘の上の王子さま】は2度死にます。
1回目はアンソニーの死という形で死にます。
2回目は【丘の上の王子さま】の正体がアルバートさんだと判明した時点で死にます。つまり、【丘の上の王子さま】とは似ても似付かないアルバートさんが【丘の上の王子さま】だと分かったことにより、キャンディが夢想した【丘の上の王子さま】が存在していなかったことが明らかになってしまいます。
そもそもアンソニーも【丘の上の王子さま】ではないし、【丘の上の王子さま】の正体だったはずのアルバートさんもキャンディからずっとそう思われていなかったので、やはり【丘の上の王子さま】ではあり得ません。【丘の上の王子さま】を思い続けたキャンディがそうだと認識できない相手は、【丘の上の王子さま】ではあり得ません。
つまり、【丘の上の王子さま】は存在しないのです。
【丘の上の王子さま】の不在性の表現が、キャンディ・キャンディの本質と考えられます。
これは【白馬に乗った王子さま】を夢に見る行為の不毛さの表現の亜種と言えます。
疑問点 §
- キャンディとは何者か
- ニールとイライザとは何か
- アンソニーとは何か
- アーチーとステアとは何か
- アーチーとステアはなぜ肝心な時にキャンディを助けられないか
- ニールとイライザはなぜキャンディを執拗にいじめるのか
- なぜニールはキャンティに惚れるのか
- イライザは変化しないのはなぜか
- アルバートさんの記憶喪失とは何か
これらを1つ1つ見ていきます。
キャンディとは何者か §
キャンディとは存在しないはずの【丘の上の王子さま】を信じてしまった痛い少女です。夢想が過剰だと言っても良いでしょう。若き日のアルバートさんと出合ったにもかかわらず、本当のアルバートさんではなく、夢想上の理想化された【丘の上の王子さま】を心に刻み込んでしまいました。
その結果として、【現実】と【確信】との間のギャップを解消することはどこまで行ってもできません。つまり味方が少なく孤独です。
ここで、夢想上の何かを現実とだぶらせて信じ込む行為を、【丘の上の王子さまシステム】と呼ぶことにしましょう。
キャンディこそ、【丘の上の王子さまシステム】の被害者そのものです。
しかし、普通の人は【丘の上の王子さまシステム】から自力で這い出ます。
それができないキャンディは、孤独で内向的な性格と言えます。自己中心的とも言えます。
アニメの主題歌の歌詞を見ると自分の欠点も全て肯定する歌詞になっています。これは自己中心的な性格の表現だと言えます。また、ひとりぼっちでいると寂しいのも事実でしょうが、そこで笑うことを提案されてしまいます。本当に行うべきは、鏡を見て笑うことではなく、他人と接することのはずです。しかし、鏡に向かって笑うことで自己完結してしまいます。
ちなみに、この主題歌は作詞 名木田恵子ですが、名木田恵子=キャンディキャンディの原作者水木杏子ですので、歌詞内容はかなり本質を突いていると思われます。
ニールとイライザとは何か §
ニールとイライザは、キャンディの存在に苛立ちます。なぜ苛立つのかと言えば、キャンディは夢想ばかり見て現実を見ないからです。
つまり、ニールとイライザは散文的な現実を代表するキャラクターです。
しかしながら、ニールとイライザは常にキャンディに対して優位にあります。現実は常に夢想に勝る存在感を持つのです。
アンソニーとは何か §
アンソニーの役割は、【丘の上の王子さま】そっくりでありながら、【丘の上の王子さま】ではないことをを通じて、【丘の上の王子さま】の不在を表現するためのキャラクターと言えます。最終的にだめ押しとして、自ら死ぬことで【丘の上の王子さま】の不在を強調します。
アーチーとステアとは何か §
アーチーとステアは、キャンディの【丘の上の王子さまシステム】の肯定者です。
ニールとイライザの対極にあります。
では、そもそもアーチーとステアはなぜ肯定できるのでしょうか?
本当の味方なら、存在しないものを信じる行為は肯定できないものです。
実は、アーチーとステアも【丘の上の王子さまシステム】に捕らわれていると考えられます。つまり、アーチーとステアが見ているものも夢想です。本当のキャンディを見ていません。【丘の上の王子さまシステム】の必然としてステアを死に導きます。
アーチーとステアはなぜ肝心な時にキャンディを助けられないか §
アーチーとステアがなりたいのは、【可哀想なキャンディ】の味方となるささやかなヒロイズムを得ることであって、キャンディを助けることではありません。
従って、本物のキャンディが本当に困っているとき、アーチーとステアは必ずしも彼女を助けません。しかし、いつも【味方】の顔をして出現します。彼らが味方しているのは、本物のキャンディではなく、本物のキャンディとだぶらせて夢想された【理想化された夢想上のキャンディ】です。
ニールとイライザはなぜキャンディを執拗にいじめるのか §
現実と夢想の食い違いが発生させる軋轢が、いじめという形で表出するのでしょう。
キャンディが夢想上の世界に引きこもればこもるほど、ニールとイライザはキャンディを無視できなくなります。
なぜニールはキャンティに惚れるのか §
ニールは更なる【丘の上の王子さまシステム】の被害者になったと考えられます。
つまり、ニールが惚れたのは夢想上のキャンディです。現実のキャンディではありません。
言い換えれば、存在しない【丘の上の王子さま】を信じて周囲を困らせたキャンディが、今度は存在しない【夢想上のキャンディ】を信じるニールに困らされる立場に立ちます。極めて皮肉です。
キャンディとニールのカップルが成立しない理由もひたすらそこにあります。ニールが求愛しているのは、夢想上のキャンディであるにも関わらず、区別がよくできていないため、本物のキャンディが求められてしまいます。
これもまた、【丘の上の王子さま】の不在を強調する描写と言えます。
またキャンディは当事者ではなく他者として【丘の上の王子さまシステム】に向き合うことを強要されてしまいます。
イライザは変化しないのはなぜか §
イライザは最初から最後まで一貫して現実側にいると考えられます。
変貌するニールの対極として変化しない立場を堅持しているものと思われます。
アルバートさんの記憶喪失とは何か §
本作のテーマが、【丘の上の王子さま】の不在を示し、キャンディ自ら【丘の上の王子さまシステム】を克服することであるとすれば、アルバートさんは邪魔者です。彼が存在していれば、【丘の上の王子さま】の不在はあっさりと示されてしまいます。そこに迷いの要素はありません。つまり、記憶喪失という形で、彼の存在を消してしまうことは物語作成上の必須の要請だったと考えられます。
また、正体の意外性を演出するという意味でも、アルバートさんを描きつつ実際には(記憶喪失ゆえに)描かないことに重要な意味があると言えます。
まとめ §
あくまで暫定ですがまとめてみます。
- 可哀想なキャンディが必死に耐えていれば良いことがある……という話では全く無い
- 物語はキャンディ視点から進行するから気にならないようだが、本当のキャンディはけっこう【うざい子】である
- いじめを肯定できるかという問題とは別に、キャンディ側にも性格的に落ち度はあり、いじめられる原因の一部を自分で作っている
- 主題歌の歌詞は、一人でも笑顔で頑張ろうという意味ではなく、キャンディは自己中少女だということを表現している
- この作品のテーマは、【丘の上の王子さま】の不在と、【丘の上の王子さまシステム】の克服にある
- 従って、【丘の上の王子さま】の正体が【丘の上の王子さま】ではないことが明らかになる結末はハッピーエンドである。
余談 §
WikiPediaのテリイのキャラクター説明にはこういう文章が含まれる。
キャンディと別れてスザナの元に残る。その後キャンディを忘れられず自暴自棄になったが、たまたまステージに立っていた田舎の劇場で、幻のように現れたキャンディの姿を見て(実際キャンディはその場にいたが、テリーは幻だと思い込んでいる)、自らの取るべき道を再発見し、ブロードウェーに戻る。終盤では役者業としての復帰成功を修めたことが新聞で明かされる。
存在しないはずの誰かが見えるのは、【丘の上の王子さまシステム】そのものであり、それを克服するのは、作品のテーマそのものだろう。
つまり、ステアが【丘の上の王子さまシステム】の克服に失敗して死んだ行為の対極として、テリイの存在があるのだろう。