「空間騎兵隊のパワードスーツはありか無しか考えてみよう」
「なぜそれが問題になるんだい?」
「昭和ヤマトの世界には存在しないアイテムだが、空間騎兵隊の装備は貧弱すぎる感はある。あってもおかしくないのも事実だろう」
「あってもおかしくないが、過去においては無かったアイテムだね」
「そうだ。あって良いという解釈も、無いという解釈もどちらもそれなりの正当性を持つ」
「君の考えは?」
「その前に感情だな」
「感情?」
「そうだ。感情だ」
「では君は何を感じた?」
「割とアイデア次第で何でもありの空中戦艦大和の世界なら、パワードスーツもありかなという感じがあって、それは別に何も問題は感じていなかった。しかし、それを宇宙戦艦ヤマト世界に持ってくるとなると、突然不快感が出てきた」
「不快感? どうして? 空中戦艦大和世界では良かったのに、なんで宇宙戦艦ヤマト世界ではダメなんだ?」
「1つに、人力で機械力に打ち勝つ世界観のせいであるだろうし、パワードスーツが【子供に力を与えるご都合主義の装置】に思えるケースが多いこともあるだろう」
「ふーん。では君はパワードスーツが登場することに反対なのだね?」
「そうとも言い切れない」
「は?」
「つまりだね。よく考えれば、不快ではないパワードスーツの描き方もあり得るわけだ」
「たとえば?」
「一例としては赤い光弾ジリオン方式」
「ジリオン方式とは?」
「パワードスーツに変形するトライチャージャーというメカはたいてい戦闘中盤で破壊され、あとは生身で戦う」
「それは何を意味するのだい?」
「パワードスーツは切り札たり得ず、最終的に人が問題になる。そういう世界観なら別にパワードスーツに不快感は無い」
「つまりなんだい?」
「パワードスーツは毒にも薬にもなる。使い方次第ということだ」
「なるほど。アイテムとしては本来中立なんだね」
「それに、パワードスーツがあるというだけで、今どきのオタクには世界に入っていく心理的なハードルが下がるだろう。商業的には好ましいメリットかも知れない」
「分かったぞ。その【商業的に好ましいメリット】が君の不快ポイントなんだ」
「宇宙戦艦ヤマトには野心的であって欲しいからな」
「容易に人気が取れるアイテムに依存して欲しくは無いわけだね」
「それは長期的に見れば自分のクビを締める行為なのでね」
「でも、パワードスーツを許容できる使い方はあるわけだね?」
「いろいろとね」
「結局、君の世界には、良いパワードスーツと悪いパワードスーツがあるってことかい?」
「厳密に言えば、良いパワードスーツの使い方と悪いパワードスーツの使い方だな」
「ひと言で言えば、その境界線はどこ?」
「心の弱さを機械力で誤魔化す使い方は悪い使い方。機械力は不完全なアシストで、最終的に人の問題に還元されれば良い使い方」
「前者は出来の悪いロボットアニメと同じことだね」
「そうだ。【幼い僕】が幼いまま強くなる装置なら要らない。むしろ、現実と直面するための装置であって欲しいよ」
ぶっちゃけ §
「ぶっちゃけ君の判断はどこにある?」
「小林誠さんがいて、極端に不快な使い方はしないだろう……という信頼感はある。だから、その点に関してあまり突っ込んだ意見は言う必要もなかろう……と思うよ」
「でも言いたいことはあるのだね?」
「言いたいことはいくらでもあるがね。パワードスーツが大好きな人達に。でも、言って何とかなるものなら、とっくに世の中は良くなってるさ」
「悲観的だね」
「小さな巨大ロボットなら要らん」
「でも、みんなが待ってるのは小さな巨大ロボットだね?」
「みんなが待っているのは大きな巨大ロボットさ。違いの分かる渋いマニアだけが小さな巨大ロボットを待っている」
「でも、その渋いマニアの愛好する小さな巨大ロボットも君は否定するのだね?」
「するする。本来のハインラインのパワードスーツは小さな巨大ロボットではないからね」
「でも、君は本来のハインラインのパワードスーツすら肯定しないわけだね?」
「生身の身体でザバイバルの戦車隊と向かい合う絶望感。多弾頭砲がまだ使えないと知ってコスモ爆弾を構える空虚な蛮勇。ああいう感じは、生身で向かい合うから出るものだ」
「でも、そう言いながらも、続編でのパワードスーツ登場を否定まではしないのだね?」
「そうさ。そもそも描く物語が違っていたら表現方法も違うかもしれない。そこまで否定しようとは思わない」
「問題は【何が出るのか】ではなく、【物語として一貫しているか】【適切な表現が選択されているか】だってことだね」
「結局テレビ的なダメさは、一貫していないことにある。アニメ的なダメさは、適切な表現が選択されていないことにある」
「そのドラマに相応しい表現はロボットでは無いはず……という事例の多さが問題なのだね」
「それを分かっている人もいるはずだ。そういう意味で人の力を軽視はしていない。でも、それを分かっていない人も多いのだろう。そういう意味で人の理解力を過信もしていない」