2019年05月23日
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下高井戸宿にいた飯盛女とはどのような存在か

Written By: 川俣 晶連絡先

【“身売り”の日本史―人身売買から年季奉公へ (歴史文化ライブラリー)】下重清著 2012年4月1日p165~167より。

遊女の売女 §

 江戸時代に制度化された身売り奉公の担い手は遊女や飯盛女(めしもりおんな)など売女(ばいた)を生業とする女性たちである。当時、生業としての売女稼業(売春)は大きく三種類に分けられていた(曽根ひろみ『娼婦と近世社会』吉川弘文館、二〇〇三年)。

 ます、①公認の売女。これは遊郭の遊女・傾城で狭義の公娼に相当する。実質は身売りであったが、名目上は遊女奉公人契約を結んで遊女屋に雇われる形をとった。遊郭は全国に二十数か所、幕府が公許した直轄都市や城下町に置かれた。ただし、どこでも売女営業ができたのではない。江戸であれば吉源(のち新吉原)、京都ならば島原、長崎では丸山など、特定の場所(遊郭街)での営業に限定さた。遊女も郭(くるわ)外への出入りを制限された。その代わり、遊郭街に何軒遊女屋を置こうが、遊汝を何人抱えようと自由であった。また、遊郭の遊女には遊客を魅了する贅沢な衣装や華美で豪華な装飾品、あるいは見世張(みせは)りなど独特のしきたりが許された。

飯盛女の売女 §

 そして、②黙認の売女。これは宿場女郎とも呼ばれた飯盛女(食売女と公称)や湊町の洗濯女・茶立女たちである。宿場・湊町・門前町の賑わいを目的として旅籠屋での売女営業を願い出て認可された。宿場町が疲弊すると宿場住人(町人)が義務として務めなければならない伝馬(でんま)・人足役に支障を来すので、街道・航路の公用輸送制度の維持のために特別に認可された。であるから、あくまで宿場・湊町において旅屋の召し使う下女(女中)が宿泊客に提供すみサービスの延長線上での売女稼業を黙認するというスタンスであった。もちろん飯盛女たちは遊女同様に飯盛旅籠屋に身売りしたのであるが、名目上はやはり飯盛下女奉公人契約を結んで雇われる形を取った。

 宿場の飯盛女と遊郭の遊女との基本的な違いは、遊女のような華美な衣装・装身具や振る舞い・営業が禁止された点である。そしてもう一つ、飯盛旅籠屋の総軒数と旅籠屋が抱える飯盛女の人数、営業時間等にはそれぞれ制限があった。延宝六年(一六七八)一一月、幕府は茶屋(飯盛旅籠屋)一軒につき給仕女(飯盛女)は二名まで、商売(売女稼ぎ)は明け六ッ(午前六時)から暮れ六ッ(午後六時)までの日中に制限した(朝触書寛保集成一)。であるから、飯盛女の過人数や「遊女まがい」の売女稼ぎは取り締まりの対象とされた。

隠れ売女 §

 残る一つは、③制禁の売女である。①②以外は隠れ売女として取り締まりの対象とななった。遊郭や飯盛旅籠屋が存在したからといって、江戸時代に売女稼ぎがどこででも自由であったわけではない。

 たとえば江戸では明暦三年(一六五七)六月、吉原の堺町東側(中央区)から浅草寺裏(台東区)、の移転直前、それまで市中で黙認していた湯女風呂での売女サービスを禁止し一斉摘発した。一般的には同年正胤の明暦大火をきがけとする新吉原、の移転と説明されるが、そうではない。すでに前年、家綱政権は吉原の移転と湯女風呂の一掃を計画しており、大火でスムーズにことが運んだだけにすない。これは江戸で社会問題となっていた「かぶき者・あたけ者(いたずら者)」対策でもあった。承応年間(一六五二~五五)から若き旗本・御家人・大名家臣のなかには渡人者を巻き込んで湯女風呂で博奕を催し、たびたび町人との刃傷沙太へと発展し問題となっていたのである(下重『稲葉正則とその時代』)。新吉原への移転後も、江戸町奉行所は市中での隠れ売女をいく度とく取り締まり、逮捕された私娼たちは地罰として新吉原に送り込まれた。

まとめ §

  • 飯盛女は、洗濯女、茶立女の同類である。遊郭の遊女とは立場が違う。湯女風呂での売女とも立場が違う
  • 飯盛女は、幕府が定めたルールの統制下にあった (ルールを破らない限り取り締まりの対象ではない)
  • 建前上は奉公人であるが実質は身売りである
  • 華美な衣装・装身具や振る舞い・営業は禁止されていた。地味な存在である
  • 営業時間や人数が制限されていた
  • 街道・航路の公用輸送制度の維持のために特別に認可されたものである。従って、幕府公式の街道の公式の宿場町である下高井戸宿もこの条件に該当したと思われる。しかし、松原宿は条件に該当したか分からない

補足事項 §

 http://ovw100bj.blog129.fc2.com/blog-entry-897.htmlに書かれている【松原宿】は世田谷区内の松原宿ではなく暗越奈良街道の宿場であるらしいが、面白いことが書いてあった。

それは、松原宿にあった宿屋には「飯盛女」茶店には「茶汲女」と呼ばれる女性が各店に二名ずついたそうですが、実際には七、八名いて遊女の様な振る舞いがあったのだそうです。

明治時代には、十二軒の店に五十二人の女性が雇われていた記録があるそうです。

 茶立女と茶汲女は同じものを示すらしい。

 ここでは各店に二名ずつという数字が上記の本の幕府の制限の記述と一致しているので、これが建前として正しい人数と思われる。(ただしその後一部宿場で人数制限が緩和されたという話もあるが下高井戸宿などまで該当したのかは不明)

 しかし、実際には二名よりもっと多い人数が在席し、遊女のような振る舞いをしていた、という記述は幕府の禁止事項が犯されていたことを示すのかどうか良く分からない。

 下高井戸宿には飯盛り女がいて面白みがあったと受け取れる記述をしている例もあったと記憶しているので(典拠失念!)、下高井戸宿でも遊女のように華美に振る舞う飯盛女がいた可能性もあり得る。

結論 §

 ここでは、以下の3点を示すだけで十分である。

  • 下高井戸宿で人身売買された女性が飯盛女として働いていた可能性がある
  • 飯盛女が許された根拠は公用輸送制度の維持のためである (近隣の村からの支援を受けた助郷と同様と思われる)
  • 制度上、吉原などの遊女とは異なるものであり、同じように扱われる存在ではなかった。より地味である (本当にどこまで地味であったのかは分からない)

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