「動物化するポストモダン」を読み終わった良い機会なので、ネギま!と動物化、データベース化をテーマにした話を書きます。
例によって、うろ覚えの内容をいいかげんに書き飛ばすので、内容は信用しないように!
本当ははるかに長い長文だったのですが、テーマの焦点がぼやけるので、思いっきり短くしました。なので、論旨の一部の説明がありません。悪しからず。
オタクの典型的な読み方 §
オタクによる作品理解は、作品の表面に出現したものを収集、分類、整理することで行われ、これをデータベース化と呼びます。
データベースが成立すると、データベースから要素を取り出して組み合わせることで、2次創作が容易に実現できます。
更にジャンルそのもののデータベース化が進めば、データベースを参照することで新しい作品も容易に解釈できるようになります。自分の中のデーターベースを参照することで、「作品を見る」→「解釈完了」という直接的なリアクションが成立します。
この状況において、アニメファンは直接的な刺激に対して反射的にリアクションを行っているに過ぎないという点で、ある種の「動物化」がなされていると見なすことができます。
以上の解釈を正しいと仮定して、話を先に進めましょう。
データベース化の死角 §
ざっくばらんに言うと、データベース化は作品を解釈する方法論としては致命的な欠陥があります。
それは、作品が包含する外部に対する参照を処理できないことです。
表面に出てくるものを収集、分類、整理という方法論では、参照された外部のものを取りこぼします。
しかし、それはオタク側から見ると何の問題も起こしません。
なぜなら、データベース解釈から取りこぼされたものは、存在そのものが意識されることがなく、当人の意識からは「取りこぼしが存在しない」つまり、何も問題は無いことになるからです。
その戦略が破綻するとき §
この対処は、実は万能ではありません。
なぜかといえば、暗黙的な外部参照は無かったことにできますが、明示的な外部参照は明示的に示されているがゆえに無かったことにできないからです。
たとえば、アニメ銀魂の主人公の名前「坂田銀時」の由来を知るためには坂田「金」時という人物を知らねばなりませませんが、それを知らずに銀魂という作品を解釈してもこれといって問題は起きません。
しかし、作中で元ネタは坂田金時であると明示的な外部参照が示された瞬間に、歴史の勉強抜きにアニメ銀魂を解釈できなくなります。もちろん、面白がってアニメを見るだけなら坂田金時のことを知る必要はありません。しかし、作品について論を語るとすれば、どうしてもそれを知らずには済ませられなくなるのです。
これがデータベース化という作品解釈方法が決定的に破綻する瞬間です。
ちなみに、一見すると坂田金時をデータベースに追加すれば問題を解決できそうに思えますが、坂田金時がデータベースに登録されていない最後の情報というわけではありません。
参照対データベース化 §
データベース化の対極にある作品解釈方法が「参照」です。
「私が持っているデータベース」によって作品を解釈するのではなく、「作品が内包する外部参照」を辿ることで作品を解釈するわけです。
しかし、これは容易なことではありません。
まず何が外部参照かを読み取らねばなりません。
そして、外部参照は1つとは限らないし、相矛盾するものが含まれることもあります。異なる作品はそもそも別個の外部参照しか持たないと思った方がよいでしょう。
明示的外部参照 §
しかし、一部の作品は参照を明示的に示します。
たとえば、アシモフの「銀河帝国の興亡」は巻末の解説で、18世紀にエドワード・ギボンによって書かれた歴史書「ローマ帝国衰亡史」を下敷きにしていると書かれています。(と思うけれど、もう遠い昔のこと名ので定かではない! 間違っていたらごめん!)
たとえば、「トップをねらえ」では科学講座等で実在の天文学、物理学への言及を行っています。「星虹(スターボウ)」や「ローレンツ変換式」は作品内の設定ではなく、実際の世界に実在するものです。
このような明示的外部参照は、とても親切です。
作品を解釈する手がかりを示していると共に、データベースを使って動物的にリアクションするだけでは作品を解釈できないことを分かりやすく示しているからです。
ネギま!も明示的外部参照を持つ §
ネギま!も、実はこのような数少ない親切な作品の1つです。
ネギま!の巻末の注釈には、どこまで本当か分からない膨大な蘊蓄が書かれていますが、その中には実在の古典も多く含まれます。
つまり、明示的外部参照を持ちます。
また呪文等も実在の言語を使っているために、これも一種の明示的外部参照と言えます。呪文は主にラテン語ですが、固有の文法と語彙が作品外部にあります。更に、梵字や祝詞まで飛び出してきます。たとえば、「藤原朝臣近衛木乃香能」と近衛姓の木乃香が祝詞で「藤原」と言っている理由まで踏み込むとすれば、日本史の世界に深く足を踏みいれねばなりません。
そして、そういったデーターベース化できない多数の要素に、ネギま!の少女達のキャラクター性は強く依存しています。たとえば、2次創作に木乃香を登場させ、アーティファクトを使うシーンを描こうと思ったとしたら、そのシーンに適合する祝詞を書き下ろす必要が生じます。しかし、それは「僕の中にあるデータベース」だけでは得られないものなのです。どうしても、外部を参照しなければなりません。
まとめ §
以下の2点をまとめとします。
- オタクの典型的な読み方であるデータベース化と動物化という戦略は、ネギま!においては明示的に否定されている。つまり、オタクとしての適合度が上がれば上がるほどネギま!の理解から遠ざかる
- よりよく作品を理解しようとする者に対して、ネギま!は親切なガイドを持つ。また、作品を分かるとはどういうことかを把握する契機として機能する
いや~、ネギま!って本当によいものですね。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……。