周囲 §
四隣、東は當郡和泉村荏原郡松原村に接し、南より西に至りては荏原郡上北澤村及び當郡上高井戸宿にも交れり、北は永福寺・成宗の二村につづけり、
四隣は以下のような意味です。Yahoo!辞書 - しりん【四隣】より
[1] 四方のとなり。となり近所。
[2] 近隣の国々。
単純に「隣接している村」と解釈して良いでしょう。
これらは以下の通りです。
- 和泉村 (多摩郡、東)
- 松原村 (荏原郡、東)
- 上北澤村 (荏原郡、南より西)
- 上高井戸宿 (多摩郡、南より西)
- 永福寺村 (多摩郡、北)
- 成宗村 (多摩郡、北)
ちなみに京都に近い「西」が「上」になります。
ここから読み取れることは、以下の通りです。
- 四隣と称しているが、方角は4方向ではなく主に3方向に分類されている
- 下高井戸宿は多摩郡に属するが、荏原郡との境界に位置している (下高井戸そのものは荏原郡に属する時代もあり、境界領域ゆえに帰属の揺れがあるらしい)
ここでは隣接する個々の村(宿)についての検討は行いません。それはそれでまた別の問題であると認識しています。
民家数 §
民家百三十二軒、
民家は132軒です。比較のために新編武蔵風土記稿の近隣の村の軒数をまとめてみました。
- 泉村村80軒
- 永福寺村42軒
- 上高井戸宿200軒
- 大宮前新田80軒
- 吉祥寺村185軒
- 松庵村13軒
- 中高井戸村7軒
これらと比較すると、132軒はけして少なくはないが、多いわけでもないことが分かります。
ちなみに、有効数字の精度は良く分かりません。132軒と1軒単位で明確な数字が出ているものもあれば、80や200など切りの良い数字を出しているところもあります。
上高井戸宿が特に多いのは、おおむね当時の上高井戸は現在の上高井戸と高井戸(西、東)を合わせて地域と考えられるからでしょう。(かなり大ざっぱでいい加減な説明なので、信じてはいけない)
もう1つ、中高井戸村7軒は突出して少ない軒数ですが、玉川上水建設時に移転を必要とした軒数がこの程度だったという話なのでしょう、たぶん。
土と田 §
すべて土性は黒野土、陸田多して水田少し、
このあたりは勉強不足で解釈が難しいところですが。
「すべて土性は黒野土」とは地面の土に関する説明であり、おそらくこれは黒土であって赤土や砂地ではないことを示しているのでしょう。
「水田」はおおむね水を入れて稲を作っていた土地という意味で良いと思います。
問題は「陸田」です。
Yahoo!辞書 - りく‐でん【陸田】より
りく‐でん【陸田】
1 はたけ。また、律令制下で、五穀をつくる乾田のこと。白田。⇔水田。
2 畑にポンプで水を入れて、水稲を栽培するようにしたもの。第二次大戦後に関東平野でみられた。
まず、江戸時代ですから2の意味はあり得ません、また、律令制下でもないので、「五穀をつくる乾田」でもないでしょう。ということは、おそらく意味的に「はたけ」なのでしょう。
つまり、現代的に言えば「田は少なく畑が多い」ということなのでしょう。
おそらく、大都市江戸で消費される野菜等を作っている、という状況の反映なのだろうと思います。
水に恵まれた下高井戸ですら「水田少し」と書かれてしまうあたり、武蔵野台地の乏水ぶりはやはり突出していると見るべきか。それとも、あえて水田が可能であっても陸田を増やしていたと見るべきか。
続く。