うーん。
悩ましいものを見てしまってどうしよう……。
モデルグラフィックスという模型雑誌があります。
2009年06月号はタミヤ1/48零戦五十二型のプロモデラーによる作成全工程を紹介するという硬派な記事であり、もう1つの目玉は宮崎駿の新作「風立ちぬ」連載第3回です。「風立ちぬ」は、堀越技師が九試単戦を設計する新解釈の物語であり、当時の世相や航空機開発の世界史などを踏まえたかなりディープな話です。
……という雑誌に掲載された痛機ギャラリー記事です。
フルカラー4ページに16+α個の作例が掲載されています。(痛車の記事のオマケのような感じか?)
ACE COMBAT 6のアイマス機体系の作例もあるし、そうではない系統の作例もあります。
はたして、これはACE COMBAT魂を揺さぶる記事になり得たか!?
などという話をいちいち書く必要は無いような気がしますが、まあ書いておきましょう。
先に断っておくと §
タイトルに「モデルグラフィックス2009年06月号の痛機ギャラリー記事はACE COMBAT魂を揺さぶるか?」と書きましたが、揺さぶるかどうかは全く分かりません。他人のことは何も分かりません。ある意味、これが結論 (笑。
個人的な感想は §
航空機あるいは飛ぶという行為はそれ自身が官能的であり、それに対して更に「女の子」を付け加える必要を全く感じません。ただし、これは航空機に女の子を描いてはいかん、という意味ではありません。たとえば、実際の航空機のノーズアートや、空自の戦競機体に描いた女の子のイラストは不可であるという意味ではありません。そのようなイラストには意味があるし、それはれっきとした現実の航空機を構成する要素です。だから、ここで問われるべきことは、そういった必然性を作例が持ち得ているのか、という点にのみ絞られます。より具体的に言えば、単に女の子を戦闘機に描くことには何ら意味はなく、それを美しく実現することにもやはり意味はなく、「そのような機体が現実に作られて飛ぶことに意味があるか」という点をクリアしなければ意味はないことを意味します。
このことは、ACE COMBAT 6のアイマス機体を忠実に作ることが1ゲームのアイテムの模型化という意味を持つこととは別次元の問題です。「ACE COMBAT 6のアイマス機体」というオリジナルの枠を取り払った瞬間に、そこで使われる方法論は無効化され、ルールが変わってしまうわけです。
そういう観点で見たとき、この記事の作例の中ではエントリーナンバー01のF-16CJ、02のタイフーンぐらいがギリギリのバランスで「あり得る」境界線上に載っているだけで、他はまず対象外という気がします。(この2つは確かに良くできてます。これならぜひ見たいと思います)