「「告白」が流行るということは、映画界はネットの対極にあるのか?という話を書いた」
「うん」
「そこで、映画界と出版界は対極にあるのではないかと書いた」
「映画界は『賢いつもりの僕』を排斥する方向にあるけど、出版界は受容しているという話だね」
「『萌え』の存在感の有無と言ってもいいね」
「それでどうした?」
「実は、佐藤大輔原作の学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEADというコミックがあるのだが、これがいかにも萌えっぽいブランドで出ていながら、内容的にあまり萌えっぽくない。野郎の出番も多いし、山ほどゾンビが出てくるし、人間を見殺しにする話すらある」
「だから?」
「実は昨日6巻が出ているのを見て買ったのだけど。そこで驚いたことがある」
「なんだい?」
「スタッフの座談会が乗っていたのだが、作品関係の話とか、彼ら自身の話を除外するとほとんど映画の話だった」
「えっ?」
「だからさ。実は、ゾンビというのは映画のお約束であり、映画ありきで発想されるネタだったんだよ」
「でも、萌えのあるゾンビというのもあり得るのじゃないか?」
「萌えキャラを死んでいるゾンビと称する設定はあり得るが、それは萌えシステムのお約束の範囲内だ」
「じゃあ、ゾンビのお約束も萌えシステムは包含できるんだろう?」
「いや。ゾンビのお約束は萌えシステムには包含されない」
「ええっ?」
「だからさ。ゾンビのお約束と萌えのお約束は排他なんだよ。ゾンビのお約束を放棄すればゾンビというキャラを萌えシステムは引き受けられるが、それはお約束まで受け入れられるということを意味しない」
「なぜ排他なんだろう?」
「その理由を「告白」が流行るということは、映画界はネットの対極にあるのか?が示していたのだ」
「どういうこと?」
「ゾンビのお約束は映画のお約束のサブセットであり、映画のお約束は『賢いつもりの僕』を排斥する方向で作用する。一方で、萌えのお約束とは『賢いつもりの僕』に寛容な出版界のお約束のサブセットであり、これは受容する方向で機能する」
「それは水と油だね」
「だからさ。学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEADの6巻でも、『賢いつもりの僕』が全員をピンチに陥れて、しかも助けに行った者も含めて見捨てられるという展開があるんだけどさ。こういう考え方はおそらく映画の世界にあっても、萌えの世界にはない」
「おっと」
「しかし、話はまだ終わらないぞ」
「なんだい?」
「実はそこで気づいたのだが、昔からパッパラ隊は好きだ」
「え? なんで突然パッパラ隊に話が飛ぶの?」
「実はパッパラ隊も昔から映画のネタが多い」
「うん」
「それどころか、作者は少年ライバルで映画の連載まで持っているほどだ」
「ええ!?」
「だからさ。昔のパッパラ隊の1巻の表紙で轟天号に乗った轟天(犬)が描かれているのは、作者がオタクです、という意味ではなく、これは映画ネタですと解釈すべきだったわけだ」
「え、そうなの?」
「だからさ。最近のパッパラ隊でも、パンチラが目玉でも萌えキャラではなくむさ苦しい野郎共の女装パンチラがどーんと描かれるわけだ。萌えのお約束を無視しているが、萌えシステムにもともと属していないと思えば別に奇異でもない」
「そうか。話が1本につながったね」
「うん。萌えに安易に染まらずそこから1本の線を引いた独自の立場を貫けるのは、きっと映画のおかげだろう」