「すげー。こんなショックを受ける日が来るとは」
「なんだい?」
「以下は近所のコンビニの現状だ」


「あまりの凄さに絶句した」
「特定のコンビニでっていう話ではないね」
「まさに近所のコンビニだ。リニューアル工事でできたばかりのピカピカのファミマにこれだ」
「ヤマトの扱いがでかいね」
「商品のキャンペーンでもあるし、宣伝予算が多いということもあるだろう。しかし、これは強烈だ。鮮烈だ」
「これほどヤマトが世の中に露出してくるとはね」
「はっきり言ってガ○ダム以上になるかもよ。一時的にとはいえ、この露出は」
「なるほど」
「ちなみに、ハリーポッターは1枚の半分でしかない。ヤマトはこの2枚と半分柱に隠れた更に1枚の計3枚を確認した。圧倒的じゃないか、我が軍は」
オマケ §
「ただ、この状況を本当にいろいろな人たちが受け止められているのか、という疑問はある」
「というと?」
「ヤマト実写版は、2011年正月を映画館で戦えるように作られている。おそらくな」
「うん。既に何回も出た話題だね」
「ではオタクやアニメ関係者がそれを正しく認識できるのだろうか」
「なぜ今になってそれを言うんだい?」
「理由は複数あるが、この写真も割合としては大きい」
「ヤマトなんかダメに決まってる。また宣伝女王が来ただけだ。というリアクションで片付けようとする風潮を懸念しているわけかい?」
「懸念というより、単なる未来予測だな」
「ははは」
「もっと言ってみようか? 実写版ヤマトというのは、確かにヤマトとは銘打っているが母体は三丁目の夕日なんだ。その先に生まれてくる映画なんだ。その流れは、アニメを百万本見ても見えてこない」
「CGをふんだんに使った実写映画の流れということだね」
「だからさ。ドラゴンボールZであったじゃないか。戦う相手を勘違いしてしまう展開がさ」
「トランクスが未来から警告しに来たのに、悟空達は間違えて別の人造人間を倒してしまう話だね」
「あなたたちは、いったい、誰と戦っているんですか。という話になる」
「うん」
「そこで、敵を見失うと最初から間違った見え方をしてしまうのかも知れない」
「そう語る君の立場はどこにあるんだい?」
「ビギナー映画ファン。ヤマト復活編から1年経ったら若葉マークを返上してビギナーは取ってもいいかな。12月になったらね」
「では、今時の劇場で戦える戦闘力というのは、どこから来るものなんだい?」
「客が今まで見たことが無い新しい映像を見せることにある。その新しさにこそ、客が足を運ぶ理由付けが存在する」
「なるほど。だから、ヤマト復活編はそれまでのヤマトでは無かったような新しい映像で出迎えてくれるわけだね」
「従って、映画館でそれなりに大きい比率を占める他の映画もヤマト実写版も同じことになる。まず映像が新しくなければ、マスとしての客が呼べない。だから自称ヤマトファンが、こんなのヤマトじゃないというほど密度の高い戦闘シーンが描かれる。当然だ。これが昔ながらのヤマトだという映像じゃ新鮮みに欠けてマスの客を動員できない」
「なるほど」
「だからさ。この問題は、劇場で上映されるアニメ映画の数々、たとえばジブリ作品やクレシン映画やコナン映画やケロロ映画がいったい何と戦っているのか、という問題にも繋がる」
「話がそこまで行くか」
「だからさ。クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦が凄く良い出来なのは偶然ではない。それが劇場で戦う戦闘力だからだ。しかも、突然出てきたものではない。その前年のクレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲もファンが多い大傑作だ。大阪万博の会場を破壊する怪獣のシーンまであるしね。でも、本当は更に前年のクレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングルも本当は凄い。何しろ、アクション仮面役の俳優が、自分は本当にアクション仮面ではないのに子供達を守るためにアクション仮面として戦う大人の話だからだ。そして、それが必要とされるのは、やはり映画館で突き抜けるための戦闘力とは何かを突き詰めていく必然といえるわけだ」
「なるほど」
「だから、クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦の次の年のクレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズも凄いぞ。何しろ、西部劇ネタのオンパレードだからな。見ていた年配の父(故人)が喜んでしまうようなぶっとんだ映画だ。ガキ向けと舐めると痛い目見るぜ、という内容だ (みさえも痛い目を見たけど)。更に、クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃も、タイトルを見るとふざけているように見えるが、実は凄い映画なのだ」
「分かった分かった、もういいよ」
「ち、実はこれでもクレヨンしんちゃん映画とドラえもん映画は語らせると止まらないぞ。全部見ているわけでもないけどな。あとケロロ映画もな」
「それで映画ビギナーかよ」
「謙虚さは重要だ」
「謙虚には見えないけどな」
「だけどさ。実際はクレヨンしんちゃんと言うだけでバカにして見なくてもいいと思うような人もけっこう多いぞ。テレビで見たことあるから分かるとか」
「分からないよね。テレビとはかなり違うから」
「永遠にとヤマトIIIぐらい違う」
「それは別物って言わないか?」
「話を最初に戻すと、そういう勘違いした分かるはずという前提でヤマト実写版を見に行っても分からないだろう。そういうものだ」
「どうしてそうなるんだい?」
「マスを前提にしたマーケティングをした必然だろう。少数派のマニア気取りはまず相手にされていない。相手にしても採算取れないからね」
「で、君はマスの側なのない? ミニの側なのかい?」
「マス側に決まっている。そもそも府中の映画館には知る人ぞ知るマイナーな映画なんてまず来ない。下高井戸シネマには来るけどな。だから府中に通って見るのは必然的にマス側の映画さ」
余談2 §
「実は推敲の結果なくなっちゃったけど、上の文章には砂絵アニメの話題がちょろっと入っていた」
「うん」
「砂絵アニメーションの実例は、きまぐれオレンジロードのEDにあるけど、意外なことにどうやって撮ったのか分からない人がいて驚いた」
「意外なの?」
「アニメーションの方式として、砂絵は定番の1つだと思っていたが、意外とアニメファンに知られているわけではなかったようだ」
「それは何を意味するんだろう?」
「マニアは世界が狭い。昔からね。そういうことじゃないか?」
「だから隣接する世界も目に入らない訳だね」
「いちばん良くないのは、目に入っていない割に本人は知ってるつもりなんだよ。それが隣接する別の世界だって気付いていない」
「ははは」
「ちなみに、マニア批判は、1980年代の激走グルメポッポにも出てくるので驚いた。昔から定番だったわけだね。まあ、芦田豊雄大先生がそういうのに批判的なタイプだったからとも言えるわけだが」
「すると君も目新しくないことを繰り返しているだけ、ってことなのかな?」
「まあそういうことになるな。永遠に続ける気は無いけど」
「新たなる旅立ちが待っているわけだね」
「うん。人生の完結編を迎えるにはまだ早い」
「この問題を乗り越えた先に君の復活編があるわけだね」
オマケ女王 §
「宣伝女王と書いたけどさ」
「うん」
「既に、宣伝女王とバカにして劇場版1000年女王を見てない行為を批判しているわけだ」
「テレビと同じようなものだと思って、浮上する関東平野も宇宙からの侵略者と戦うゼロ戦も知らない割に知ったかぶりして喋るなってことだね」
「喜多郎の音楽もな」
「それもあるか」
「1つに、売れないから宣伝を多く流す、という傾向があることは間違いないと思うが、だからといって見ないで語れる映画があるわけでもない」
「予測と空想で作ったイメージと実際は違うってことだね」
「宣伝が多いか、売れ行きが大きいか、という話と映画そのものが面白いかという話は全く関係が無い」
「何事も見るまで分からないわけだね」
「見て分かるかどうか、という話も別途あるわけだけどね」
「まあそれはそれとして」
「まあ、同じ作品なのに超不人気アニメと超人気アニメを往復したヤマトがいい例だと思えばいいのかな」
「アニメという文法を作ったヤマトが、今度はアニメという文法を壊しに来たのかもね」
「いいぞ、それでいい。それこそ待ち望んでいたヤマトのあるべき姿だ」
「ヤマトこそ、滅びと再生の使者だってことだね」