「起承承承とやおい(山なしオチなし意味なし)は限り無く近い存在だと分かったことで、1つ気になる話と連動する」
「それは?」
「24年組」
1971年卓見・2016年のオタク §
少女マンガ論の生成期と「24 年組」神話より
『COM』1971 年1 月号に掲載された「ぐらこんロビー」では、石川県からの投稿(坂田靖子3)が掲載されている。
(中略)
「少女まんが家は基礎力不足である。ヒット作は全員、右へならえをする。目が大きすぎる。老人まで美少年である。」
「これを見て今のオタクと大差ないと思ったよ」
「どういうこと?」
「こう書き換えてみよう」
- 「オタク作家は基礎力不足である。ヒット作は全員、右へならえをする。目が大きすぎる。老婆まで美少女である(ロリババア)。」
「なぜ基礎力不足だと思うの?」
「起承転結をしているつもりで起承承承に陥ることが多いという指摘は基礎力不足の指摘そのものだからさ」
「ぎゃふん。だからこの話が起承承承の話題に関連して出てくるのか」
「しかも、右へならえが大いし、目が多すぎるし、老人が老人らしく描けないのもよくあるケースだし」
「それで?」
「このあと坂田靖子の文章はこう続く」
「少女まんが」は程度が本当に低いのならば、今ほど多勢のファンがいるはずがなく、キラキラピカピカにも理由があるのだし『COM』の数々のまんが論の中で「少女まんが」だけのけものにされているのはとても変なことだと思います。
「なるほど。ダメだと思って書いた文章ではなく、少女漫画はダメじゃないという趣旨なんだね」
「でもね。実はこの文章ですらオタクに相似形を求められる」
- 「オタク文化」は程度が本当に低いのならば、今ほど多勢のファンがいるはずがなく、ロボットにも美少女にも理由があるのだし数々の文化論で「オタク」だけのけものにされているのはとても変なことだと思います。
「ああ。こういうのはけっこうあったね。20年前? 30年前? 最近ではあまり見ないけど時々あるよね」
「さて、更に面白い文章がある。石子順造(1972)だ」
そういったコミニケーション(ママ)概念を不変なものとしてマンガを〈読む〉人には、「少女マンガ」はなんとも退屈で、それこそ内容がない、という一語で片付けられてしまうにちがいない。「少女マンガ」は、そういったコミュニケーション(ママ)に比してなら、インフオアメーション(ママ)として受けとるほかはない。それは、〈見る〉=〈歌う〉=〈聞く〉ものなのだ。(略)「少女マンガ」には、ドラマがない、内容がない、というだけでは、じつはなにもいったことにはならない。ドラマとか内容とかとは一応切れてしまったレベルで、表現が表現として成立しようとしているからだ。
「これがいったいどうしたというのだい?」
「【ドラマがない、内容がない】という部分に注目してくれ」
「それがなんだ?」
「今は、始まりも終わりもなく日常がダラダラ続くだけのアニメが意外とオタクから支持されている」
「な、なんだってー」
少女マンガとは、読者である少女にだけ通じるコミュニケーションの形式であったため、少女ではないものにはなかなか理解できなかった。
「これはこう書き直せるね」
オタク向けアニメとは、視聴者であるオタクにだけ通じるコミュニケーションの形式であったため、オタクではないものにはなかなか理解できなかった。
「なんてこった」
「それから、以下はかがみばらひとみ(1977)の文章」
感覚それ自身としては、明確な輪郭を持たないつかみどころのないものへと昇華されていったことに理由がある。読み手も、書き手も、そこに、自由に自己の理想的な鏡像を描きこむことが可能になったのだ
「オタク向けのゆるふわの世界観は明確な輪郭を持たない。そこに自己の鏡像を描いているように思えるケースは多い」
「自分の好みにあったもの以外は評価できない、愚かなドマニアさん」『週刊マーガレット』(集英社)1976年33号p.123池田
「最近、趣味に合わない映画を全て黒歴史扱いするオタクに思ったこととそっくり」
「ひぃ~」
「ところで、いつ誰が言いだしたのか『24年組』。それまでの少女まんがの歴史をかえた、S23、24、25年生まれの女性作家達を総括して、『24年組』と言うそうです。で、私も、どうやらそのしっぽに入ってるらしいんですが、でも私は『24年組』じゃないもんね。断固。たしかに生まれは同じ頃ですが、めざしてる方向も舞台も資質も違うもの。それを同じ土台にのっけて、一方をほめたたえ評する時のたたき台にするなんて、フェアじゃないと思ったし。」〔木原敏江全集6『花草紙』(角川書店)1990年・p328-329〕
「ところで、いつ誰が言いだしたのか『オタク』。それまでの文化の歴史をかえた、ヤマト以降のマニア達を総括して、『オタク』と言うそうです。で、私も、どうやらそのしっぽに入ってるらしいんですが、でも私は『オタク』じゃないもんね。断固。たしかに生まれは同じ頃ですが、めざしてる方向も舞台も資質も違うもの。それを同じ土台にのっけて、一方をほめたたえ評する時のたたき台にするなんて、フェアじゃないと思ったし。」
「おいおい。単語を置き換えただけでおまえの言い分そのものじゃないか」
「まとめだ」
1. 生年、つまり女性を年齢でくくっている点。
2. 彼女たち以外のマンガ家、とりわけ彼女たち以前の少女マンガ家たちへの偏見を、助長する恐れがある。
3. ただ、団塊世代の女性マンガ家を擁護する語になりかねない。
4. 〈24年組〉にあげられる作家自身が、好ましく思っていない可能性が高い。
「じゃ。まとめも書き換えて終わろう」
「ひぃ~」
- ヤマト以降、つまり人間を特定の時代以降でくくっている点。
- 彼ら以外のマニア、とりわけ彼ら以前のマニアたちへの偏見を、助長する恐れがある。
- ただ、就職難世代のニートを擁護する語になりかねない。
- オタクにあげられるマニア自身が、好ましく思っていない可能性が高い。
オマケ §
「さて。ここで付記するべき論点が2つある。1つはヤマト関係で、1つは私的なものだ」
「ヤマト関係とはなんだい?」
「少女漫画をオタクに書き換えようとすると、どうしてもヤマトの3文字が入り込んでくる。それぐらい、オタクとヤマトは切っても切れない。でも、ヤマトそのものは契機であってオタク文化そのものではない。微妙に立ち位置が違う」
「では、私的なものは?」
「昔、山田ミネコのコミックを集めていたことがあるのだがね。この論文には1つだけ山田ミネコの名前が出てくる。しかし積極的には出てこない。それはなぜか。24年組ではなく、大泉サロンに出入りしたという表現で出てくるだけだ」
「それはどういうことだと思う?」
「さあ。それはまたこれから考えることだ。でも、山田ミネコは割と理屈タイプで共感タイプではない」
「どのへんが?」
「たとえば、最終戦争伝説巻頭カラーに掲載された詩の一節を引用しよう」
左足に右足をのせる
重さは倍になるか?
いいや そんなことではない
「ヤマトも理屈タイプだね」
「そう。かつて存在した戦艦大和っぽいメカを描くからそれは兵器に見えるという理屈だ。ガンダムにそういう理屈はない。ロボットは強いという共感があるから兵器に見えるだけ。理屈はない。設定があるだけ」
オマケ §
「少女漫画は歌うようなもの、という意見はそれはそれで少女漫画を擁護しているようでいて歌というものを敵にまわしている」
「なんで?」
「歌にも構造や理屈かあるからだ。単なる共感や感性だけのものではない。まあ、感性だけでできている歌もあるだろうが、分析すると構造が出てくる」
「なんてこった。業が深い」