「昭和世代のヤマトファンと、ヤマト2199以降のヤマトファンははたして融和できるのか?」
「融和している人もいるよ」
「してない人もいる」
「はたしてどこが違うんだい?」
「旧ヤマトが好きという事象と新ヤマトが好きという事象は本来独立しているからだ」
「どういう意味?」
「実は、ヤマト2199以降の新ヤマトにはごっそり無い要素がある。逆に、ヤマト2199以降の新ヤマトにあって、旧ヤマトには無い要素がある。そういう部分に注目して見る限り、新ヤマトと旧ヤマトは全くの別物だ」
「それで?」
「そういう問題は意識しないでヤマトとして受け入れたり、違いは分かってもどちらも好きだという人もいる。逆に、そこがヤマトのポイントなので、それを欠いたものはもはやヤマトではないと思う人もいる。それだけの差だろう」
「で、両者は融和できると思う?」
「その問いかけは不適切だと思う」
「というと?」
「融和するためには何が必要なのか、という問いかけてあるべきだろう」
「じゃあ、何が必要だと思う?」
「うん。それは【私の感じ方とあなたの感じ方は違う】ということを承認することだと思う。その上で、あなたと私は違うから、好きなものが違っていても普通である。しかし、隣接した趣味であるから仲良くしていこう……と思えば融和はできると思うよ」
「つまりなんだい?」
「コンバトラーVの同人誌の隣でボルテスVの同人誌を売っていたとしても、コンバトラーとボルテスのどちらが優れているかで喧嘩をする必要はないってことだ」
「つまり、理想型は『君がボルテスを好きなことは分かった。君の同人誌も売れるといいね。でもうちはコンバトラー愛を炸裂させるよ』ってことで話が終わるわけだ」
「そうだな」
「それが最も好ましい結末?」
「というか、ヤマト2199以前のヤマトが既にその状況だった。そもそもヤマトファンとヤマトファンの交流は、【あなたのヤマトは何ですか?】と問いかけて、「そうですか。あたはヤマト2が好きですか。私はIIIが好きです」という感じで話が転がっていくものだった。そして、そういうことができる人と、できない人がいた。そういう状況はもともとあった」
「どこも目新しくないわけだね」
「まあ、ぶっちゃけ、そういうことだ」
「じゃあさ。いちばんダメな展開ってなに?」
「ヤマトファンはみんな仲間なんだから、みんな同じものを見て、同じグッズを買って、同じイベントに参加して、みんな仲良くしなさい……という頭ごなしの強制だろうな」
「同じになれ……という要求がむしろ反発を呼んで亀裂を深めるわけだね」
「そうだ。もともと同じではない人たちを強制的に同じにしようとしても、できるわけがない」
「ヤマトファンが10人いれば11のヤマト解釈がある世界を受け入れとってことだね」
「いや、こう言った方が良い。争いを運命だと思って受け入れるな」
「運命を受け入れるだけでは愛は実りませんわ」
オマケ §
「そして愛は実るがイスカンダルは自爆して消えるわけだね?」
「イスカンダルの話はしてないよ」