「コスモウォーリアー零の第1話を久々に見たがね」
「感想はどうだった?」
「これ、もう2度と作れないな」
「えー」
「個人製作の小説とかコミックの世界ならあり得る。アニメとしては百日紅とかこの世界の片隅にのレベルならあり得るが、そうではないならもう作れないと思っていいだろう」
「どうして、個人だと行けるのに集団になると行けないんだい?」
「戦後の混乱期の経験者、経験していなくても間接的に知っている者がほとんどいなくなった時代だ。描くべきものを共通認識として持つのが難しい」
「その難しさを乗り越えられた本当に例外的なアニメだけが到達できる世界だね」
「そうだな。絶対に行けないとは言わないが行くのは難しい」
「で、本題はなんだい?」
「うん。その前にコスモウォーリアー零の第1話のあらすじをおさらいしよう」
- 機械化人との戦争に地球人は負けた
- 敗軍の将、元艦隊司令ウォーリアス・ゼロが主人公である
- ゼロはボロ船(陽炎)を指揮している
- ハーロックのデスシャドウ号が機械化人の輸送船を襲っている
- ゼロが駆けつけてハーロックと対峙する
- ボロ船なので負けるが度胸を買われて見逃してもらえる
- ゼロは戦艦火龍を返してもらってハーロック討伐に出港する
- 美女の副長のシャワーシーンを覗く
「ハーロックに戦闘を仕掛ける際の高揚感。そして受けて立つデスシャドウ側の高揚感。凄いね。あれは見事だ。最近は見ないような気がするタイプの高揚感だ」
「そんなものかね」
「雰囲気的には、ハーロックに戦闘を仕掛ける陽炎のブリッジの高揚感は、ヤマト2199第1話で敵に単身突っ込んでいく雪風に近いのだが……」
「だが?」
「作画とか演出というもっと前の段階で圧倒的にコスモウォーリアー零の方が上手い……というか、ヤマト2199の方がスタートラインに立てていない」
「まさか」
「それが【これはもう作れない】と言った理由そのものだ」
「作れないはずのものを、表面だけなぞっても滑ってしまうわけだね」
「そうだな」
「で、コスモウォーリアー零に存在する何がヤマト2199には欠けているんだい?」
「コスモウォーリアー零の場合、彼らは職務を果たすために戦いを挑むのであり、勝算が無かったわけでもない。機械人相手に発散できない鬱屈を海賊相手にぶつけられる機会でもある。だから、海賊を相手に戦うという空気が全艦一体となって発生する」
「ふむふむ」
「でもヤマト2199の場合、上官からの撤退命令を蹴ってまでそこに残るのは職務かどうかよく分からない。しかも、勝算などない。明らかに死ぬ。仮に古代守が死を決意したとしても、乗組員全員が同じ気持ちというのはとても不自然だ。どう考えても死にたくない乗組員はいる」
「ヤマト1974の場合はどうなっている?」
「雪風の乗組員は明示的に描かないことで矛盾を回避している」
「無念と思いながら古代守によって殺された乗組員はいるという解釈だね」
「あるいは脱出して死んだか」
「えー」
「この種の【なぜか指揮官に全員付いていく】という不自然さはドメルの自爆でも繰り返される」
「結局、美談を成立させるために部下を道連れにする酷い話を解消しようとして、【部下も同意している】と描いた結果として、逆に【部下の人間性を認めない】という別の酷い話になっただけってことだね」
「まあ、人が人に見えないのはヤマト2199全般に渡って見られる現象なのであまり突っ込む意味は無いがな」
「ぎゃふん」
「しかし本題は別にある」
「なんだよ、その本題って」
「ヤマト2202の第1話で【ガミラス艦に敬意を払え】と怒る古代」
「さらば宇宙戦艦ヤマトの【解析できないなら記録しておけ】に対応する台詞だね」
「しかし、さらば宇宙戦艦ヤマトの場合は記録ならしていると言い返されて古代が間抜け扱いされる。ヤマト2202は間抜け扱いされない。そこが引っかかった」
「間抜けなシーンが出てこないのはヤマト2199/2202を通じた特徴だね」
「ここで言いたいのはそのことではない」
「じゃあなんだよ」
「コスモウォーリアー零の第1話では、敵だった機械化人の船を助けるのか、と部下に言われて、戦争はもう終わった、条約があるから助ける、とゼロが言って助けに行く」
「つまり、かつての敵を敵扱いすることを戒める指揮官という構造が似ているわけだね」
「そうだな。だから、ヤマト2202第1話の古代が怒るシーンの元ネタは、さらば宇宙戦艦ヤマトに似せて古代と相原の会話になっているが、本来の元ネタはコスモウォーリアー零の第1話ではないか、という気がした。あくまで可能性だがね」
オマケ §
「コスモウォーリアー零の第1話を見た、純粋に個人的な君の感想を聞きたい」
「そうだな。リアルタイム放送時、最終回まで見ようと思った理由がよく分かった。これなら今の自分でも最後まで見ようと思う」
「その理由はなんだい?」
「物語作りの質が非常に高い。表面のファッションだけ真似して物語が滑っているアニメが多い中で、これは特大の骨太だ。テレビアニメだから作画はしょぼいけどね」
「なぜ物語作りが優秀なんだい?」
「おそらく、脚本藤本信行という部分に理由があると感じた」
「藤本信行って誰だ?」
「宇宙船サジタリウスの脚本を書いていた人の一人だ。1957年~2015年に生きた人だ。戦後混乱期の波をかぶって生まれてきた人だろう」
「なるほど。それならば、骨太かも知れない」
「ついでに、宇宙船サジタリウスの監督=コスモウォーリアー零の監督=横田和善な」
「えー」
「宇宙船サジタリウスの監督横田和善と脚本藤本信行のラインが良い感じに決まって成功したのがコスモウォーリアー零ではないか。そんな気がする」
オマケ2 §
「ついでに言えば、横田和善さんは【はいからさんが通る(1978)】の監督な」
「えー」
「結局、【横田和善】ってページはWikiPediaにも無いがな」
「無いのかよ」
「実は、コスモウォーリアー零は凄いスタッフが凄い関わり方をして凄い作品になっているのかも知れない」
「じゃあ、なぜ知名度が低いんだよ」
「おそらく、知名度が低いから凄くなれた。もし、ハーロック新作ですとかヤマトっぽい宇宙戦艦ものですと言ってしまったら、わけの分からない有象無象が沸いてきて横やりを入れる」
「そうすると、大ヤマト零号のように、変なところに迷い込んでいきなりVol.3で終わっちゃったりするわけだね」
「まあ、知名度が上がった結果、ヤマト2199だって変なところに迷い込んでしまったがな」
「ぎゃふん」