「結局、ヤマト2199、2202が示したのはニホンスゴイがいとも簡単に宇宙戦艦ヤマトに載ってしまったということと、それによって宇宙戦艦ヤマトが宇宙戦艦ヤマトに見えなくなってしまった相反する2つの問題だろう」
「そう思ってない人もいるよ」
「おいらにはそう見えた。考え始めるにはそれで十分だ」
「その問題には理由があると思うのかい?」
「あるみたいだ」
「それはなんだい?」
「そもそも、ニホンスゴイとは日露戦争後に始まり昭和初期に存在した神国日本と言う思想と似ている。要するに、世界の中で日本がどうかという視点抜きで【我々は凄いから凄い】という循環論法で自分を称える思想という意味で似ている」
「それで、それと宇宙戦艦ヤマトとどう関係するんだい?」
「宇宙戦艦ヤマトの背景にあるのは、そういう戦前のミリタリー少年の夢みたいな部分だからな。根っ子の部分でつながっている」
「なるほど。それにも関わらずなぜ宇宙戦艦ヤマトが宇宙戦艦ヤマトに見えなくなってしまうんだい?」
「それはね。あくまで回顧だからだよ。実際には凄くなかった日本という歴然とした結果を踏まえた70年代の作品なので、常に、【我々はどうすれば本当に強くなれるのか】という思想性が付いて回る」
「何か一例を出してくれよ」
「戦艦大和は空を飛べないから負けた。ならば飛べるようにすれば良い……等だな。そういう【凄い】と【凄くない】が両方あって、凄くない部分をどうリカバーするのかという思想性が濃厚にあった」
「では、どういう箇所に昔のヤマトとヤマト2199の違いはあると思うのだ?」
「たとえば、ヤマト1974のイスカンダルは圧倒的な強者であり、地球人は頭が絶対に上がらない。それだけの強者の支援を得なければ戦えないという思想性の発露だ。それに対して、ヤマト2199のイスカンダルは分からず屋の嫌な女が住んでいるだけで、さして偉そうに見えない。たまたまいいものを持っているから取りに来いというレベルの感覚で扱われている」
「イスカンダルが軽い……」
「そう。ヤマトスゴイをやろうと思ったら、他に凄いものがあってはいけないからだ。凄いものからは全て凄さが剥奪されるのがヤマト2199や2202の特徴」
「なぜそうなるのだろう?」
「世代的に、決定的な負けを経験していないからだろう」
「負けを経験していないと宇宙戦艦ヤマトは作れない?」
「そうだと思うよ」
「なぜ、同じ21世紀ヤマトであってもSBヤマトは同じ評価になっていない?」
「経験はしていないが、負けを理解している人が作っているからだろう。三丁目の夕日の昭和三十年代の光景とか、永遠の0の戦後の大阪のバラックとか、ああいうのは負けを理解していないと描けないものだよ」
「そこに最大の溝がある?」
「まさに、そうだと思う。それゆえに、SBヤマト的世界と、ヤマト2199的世界は対立的に存在していて永遠に接点はないだろう」
「なるほど」
「そして、どちらがよりヤマト的かと言えばSBヤマトの方がより本来あるべきヤマト的な存在だろうと思うよ」
「負けが前提に組み込まれているからだね」
オマケ §
「ただし、その結論は同意されない可能性がある」
「どうして?」
「負けは共有された前提ではないからだ」
「永遠の0を見ても、戦後のバラックを見ないで赤城しか見てない人がいるわけだね」
「だいたい昭和40年代産まれ前後ぐらいを境に戦後復興期の社会が大きく変化する様子を実際に見ていない世代になるので、それ以後の人たちは負けというものを実感として理解できないだろう」
オマケ2 §
「ただし、その結論は同意されない可能性がある」
「どうして?」
「SBヤマトはアニメではないからだ」
「実写というだけで、蔑視する差別的な風潮は昔からあるわけだね」
「オタクが差別された過去を無かったことにしたい人たちは批判されるべきであるが、同時にオタクが差別する側にまわったことも、やはり無かったことにしてはいけないと思うよ」