勇者王ガオガイガーFINAL GRAND GLORIUS GATHERINGを見終わりました。
私はいろいろな感想を書いてきた訳ですが。
最終回の感想を書き終えて、あることに気づきました。
感想の中で触れてきた様々な事柄。
- スペース1999第1シーズンとの類似性(と相違)
- 神話であることの意味
- アニメブームの終焉
これらには、思った以上に強い関係があるのではないかということです。
つまり、勇者王ガオガイガーFINALという作品が生まれたことは、アニメブームの終焉の引き金を引くに値するインパクトがあり、同様にスペース1999第1シーズンが生まれたことが特撮ブームを終焉させるインパクトがあったかもしれない、と言うことです。なぜ終焉させるだけのインパクトがあるのかと言えば、どちらも神の領域に触れてしまった作品だからです。
神の領域に触れる作品 §
勇者王ガオガイガーFINAL GRAND GLORIUS GATHERINGは、「勇者王神話の集大成」とナレーションで語る通り、一種の神話となるドラマです。そこでは、まさに創造神と破壊神と名乗る者達が戦いますが、無限に再生される者達の戦いは、常識的な人の戦いではなく、まさに神の領域の戦いと言わざるを得ません。舞台となる複製された地球もまた、創世神話を彷彿させる神の領域です。最後に地球に戻ることができず消えていく主人公達は、まさに神の領域に行ってしまったと言って良いでしょう。
そして、スペース1999も、神の領域に触れる作品です。ブラックホールの中を通過するときには超越者の声を聞き、また地球人類の始祖となる男女を太古の地球に置いてくるエピソードでは、まさに宗教的な使命を彼らが背負うように描かれています。
さて、個人的に、勇者王ガオガイガーFINAL GRAND GLORIUS GATHERINGは勇気により勝利するドラマであり、スペース1999は精神力で勝利するドラマだと感じています。しかし、勇気と精神力は非常に近いものであり、本質は同じと見て良いでしょう。つまり、けして諦めず、恐れず、自分の信念を貫き通すことです。
そして、このようなドラマは必然的に神の領域に向かって進みます。
それはなぜか。
勇気あるいは精神力によって成し遂げる成果は、一見して常識では達成できないことであるように見えることがあります。
そのような出来事は、奇跡と呼ばれます。
奇跡とは、神によって引き起こされる出来事と定義づけられ、つまり奇跡を起こす者とは神の領域に属するかのように見えるのです。
ここでは、神の領域に属する者と、属するかのように見える者の違いを区別することは無意味であると考えましょう。
とすれば、この2つの作品は、神の領域に触れてしまったのです。
神の領域を語るとは、どういうことか §
神の領域を語るというのは、宗教的、哲学的な行為になります。
別の言い方をすれば、抽象的な行為であると言えます。
たとえば、「全ては無である」「そこに存在し、そして存在しない」といった一見して矛盾した語りが増え、具象的に内容を示すことが困難になります。
つまり、神の領域を映像作品として語ることは、著しく困難ということになります。
(それどころか言葉ですら、どこまで語れるか怪しいところがある)
それゆえに、勇者王ガオガイガーFINAL GRAND GLORIUS GATHERINGでは、主人公達は物質世界の代表として形ある存在として戦い、そして最後に神の領域に飛び去ります。そして、スペース1999では、主人公たるコーニッグ指揮官は神の領域にしばしば触れながら、そこに彼自身が入ることは常に拒絶されます。
そこから考えれば、神の領域に触れることは、映像作品の限界に突き当たることに他ならないのは明らかです。
つまり、勇者王ガオガイガーFINAL GRAND GLORIUS GATHERINGのテーマを更に突っ込んだ作品は、映像作品としては作り得ず、スペース1999第1シーズンでも同じことが言えるということです。
言い換えれば、これらの作品は、映像作品が到達しうる究極の領域に到達しながらも、そこにジャンルの死と絶望を見出したと言えるのです。
ですから、もはや続編はあり得ません。
スペース1999第1シーズンに続いて作られた第2シーズンは、単なる宇宙アクションドラマになってしまったと言うだけでなく、通俗ドラマとしても盛り上がりを欠くものになってしまいます。更に、ゲリー・アンダーソンがその後に手がけたテラホークスに至っては、大人指向は完全に影を潜め、純粋に低年齢の子供向け作品に徹してしまっています。
特撮の死・アニメの死 §
つまり、スペース1999は特撮という映像ジャンルに死亡宣告を行ったに等しいインパクトがあった可能性があります。
だからこそ、スペース1999の時期を転機に、私は急速に特撮への興味を失ったと言えるのかもしれません。
厳密に言えば、個人的に特撮に見切りを付けたのは科学戦隊ダイナマンの第1話を見た時なのですが、それは既に終わってしまったということに、私自身が無自覚であったためでしょう。
ちなみに、ゲリー・アンダーソンの特撮はスペース1999第1シーズンをピークとして勢いが急降下しますが、その後アメリカでスターウォーズが出現し、特撮は別の流れを作り出していきます。スターウォーズは、ぬけぬけと古典的パターンに回帰することで、スペース1999的な限界を回避することに成功しています。しかし、スティングレイからスペース1999までゲリー・アンダーソン特撮に盛大に付き合ってしまった者が、今更燃え上がることができる世界ではないというのも事実でした。
さて、このような世界観の解釈は、勇者王ガオガイガーFINAL GRAND GLORIUS GATHERINGを見て、スペース1999と並べて比較検討できたからこそ語りうると言えます。
では、特撮は良いとして、アニメの方はいったいどうなのか。
もちろんアニメブーム終末論として、アニメブームの終焉について既に語っています。しかし、この作品の存在が、アニメブームの終焉をもたらし1要因と言えるのかもしれない、という解釈はあり得ることに気づきました。
そして、私自身がもはやアニメに燃えることができないという冷酷な死刑宣告であるかもしれない、という可能性も……。
もちろん、特撮の時と同じように、何年かは余韻で走れるでしょう。しかし、余韻だけでは永遠に走れません。何かもっと面白いジャンルが生まれてくれば、そこで私にとってのアニメは終わってしまうかもしれません。かつて、特撮が終わってしまったように。
とはいえ、個別作品の話は別 §
とはいえ、個別作品の話は別です。
私の中で特撮は終わってしまったと言っても、終わった遙か後に生まれた超光戦士シャンゼリオンは凄く好きだし、そのような個別の例外事項はいくらでもあり得ます。そういう意味で、おそらくは凄く面白くて好きだと言えるアニメ作品が、今後も出てくる可能性は十分にあり得ます。
死亡宣告であろうとも良いものは良い §
誤解を避けるために、最後の1つだけ補足しておきます。
勇者王ガオガイガーFINAL GRAND GLORIUS GATHERINGもスペース1999も、どちらも良い作品だと思うし、好きです。それがジャンルに対する死亡宣告であるという仮説が正しいとしても、です。