古川享さんのブログによると、CEATEC Japan 2005の会場にて、古川さんの飛び膝蹴りが2回も不発に終わったそうです。
詳細は下記参照。
さて、これを読み終わりましたね?
読まないと意味が分からない話をこれ以後に書きます。(つまり、コンテキストが存在するということです)
飛び膝蹴りとは何か? §
「飛び膝蹴り」という概念は、私にも良く分かります。世の中で、「飛び膝蹴り」の発動を意図する瞬間というものは、けして珍しいものではないでしょう。
しかし、飛び膝蹴りとは何かについては、コンテキスト(文脈)から明瞭に読み取れるので、あえて分析したり説明する野暮はしません。
なに、1から10まで全て懇切丁寧に説明されないと読み取れない? そのような発言こそ、まさに「飛び膝蹴り」の発動を意図する瞬間となる(かもしれない)好例です。これで分かったかな? (笑。
飛び膝蹴りはなぜ不発であったか? §
それは、古川さん自らが、ぐっとこらえたからであることが上記ブログから読み取れます。
意図が明瞭に示されているので、深く考察する問題ではないでしょう。
飛び膝蹴りは必要とされるか? §
仮に、コミュニケーションを成立させるということを至上の価値とするならば、「飛び膝蹴り」を意図した者と、意図された者の間にコミュニケーションを成立させるために努力を払う価値があることになります。
この場合、コミュニケーションの不成立という問題を認識しているのは「意図した者」であって、「意図された者」はそもそもコミュニケーションが成立していないという認識を持っていません。従って、このようなアクションは、「意図した者」の側から能動的に発動しなければなりません。
この場合のアクションは、当然のことながら「飛び膝蹴り」である必然性がありません。言語を使った説明などの非暴力的な対処も選択肢に含まれ、常識的な社会人であれば非暴力的な選択を取ることが好ましい態度であると言えます。
しかし、ここで留意されるべきことは、コミュニケーションの不成立という状況を認識しているのは、当事者の一方に過ぎないということです。
「意図した者」は、不成立に終わったコミュニケーションを再度成立させるため、ネゴシエーションのフェイズより再開しなければなりません。このフェイズを通過しなければ、コミュニケーションを成立させることができません。
しかし、「意図された側」は、コミュニケーションは成立しているという認識を持っているために、ネゴシエーションの試みをコミュニケーションの一部であると誤認識する可能性があります。その結果として、ネゴシエーションは失敗してコミュニケーションを再度成立させる試みが失敗します。それどころか、「意図された側」は一貫してコミュニケーションは成立しているという認識を持っているので、明らかにコミュニケーションのあるべき姿から逸脱したネゴシエーションの試みを悪質な反コミュニケーション的態度として受け取る可能性があります。つまり、本来存在しない悪意をそこに読み取り、それによってコミュニケーション成立の可能性が更に遠のく可能性が考えられます。
このことは、言語による説明という手段を用いて再ネゴシエーションを試みることが、極めてリスクの高い選択であることを意味します。
しかし、他の方法が無いわけではありません。コミュニケーションは「言葉」だけで行われるものではないからです。
言葉は一種の「情報」と捉えることができますが、それとは別に「強度」という概念があります。(ここでいう「強度」の定義は……、なんだろう? 明確ではないままいい加減に使います。最初からネタを意図したデタラメな文章だから突っ込んでは嫌ですよ (笑)。
たとえば、「飛び膝蹴り」とは、強度を伝達する手段となり得ます。それが社会常識的に発動される手段ではない、という理由により、「意図された側」は、自らが信じて疑っていなかった常識が、目の前の現実と食い違っている可能性があることが了解できます。
言語による情報交換というシステムはしばしば機能不全に陥りますが、その場合でも強度によりコミュニケーションを成立させうる可能性は残ります。
飛び膝蹴りは発動すべきであったか? §
さて、話はまだ終わりません。
コミュニケーションが不成立である状況において、それに気付いている側が気付いていない側に対して、その事実を伝達する手段として、言葉による説明よりも飛び膝蹴りの方が優れている状況は確かにあり得ると思います。
では、コミュニケーションを成立させるために、飛び膝蹴りを発動させるべきでしょうか?
これに関しては、ノーと答えることができます。
情報の伝達が不成立である場合に、強度による伝達は可能であるかもしれません。しかし、強度は情報を伝えません。何か伝えるべき情報がある場合は、再度言葉によるコミュニケーションを成立させる必要があります。
しかし、コミュニケーションの不成立に気付くことができない者は、そもそも求められているコミュニケーションの性質の違いによって対応を変える必要があるという認識を持ち得ない可能性が考えられます。このようなケースにおいては、たとえ強度によってコミュニケーションの不成立を伝達することができたとしても、それによってコミュニケーションを成立させることは著しく困難であると言えます。
もちろん、それによってコミュニケーションを成立させることができる可能性は常にあります。しかし、成立させうる余地がある相手であれば、「飛び膝蹴り」の段階に達する前に自ら気付く可能性が高いと思います。
従って、たいていの場合において、飛び膝蹴りの発動は、コミュニケーションの再度成立という意図のためには、効果的な対処とは言えない……、と考えられます。
従って、飛び膝蹴りを不発に終わらせた古川さんの選択は正しいものであると推測されます。
という話を書いてみたくなっただけなのですよ。それだけのことなので、けして内容に意味があるなどと考えないように。また、このような内容は信じないのが健全な態度というものです。うかつに信じ込まないで、健全に他人を疑う精神の健全性をみんな持とうね!