FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN(以下FF7AC)は、非常に人気が高いようです。
スクウェア・エニックスの決算のニュースでも、ゲームは今ひとつでもこれが売れていたというような記述を読んだような記憶があります。
では、どうしてFF7ACに限って売れるのか?
その理由を考えてみました。
FF7ACの位置づけ §
FF7ACはFINAL FANTASY VIIという何年も前の古びたゲームの後日談を描いた映像作品です。
常識的に考えれば、これは2つの意味で購買層を限定します。
まず、FINAL FANTASY VIIを知らない人は対象外になること。
そして、古いゲームであるがゆえに、ファンであっても既に熱意や記憶を失った者達も、やはり対象外になることです。
つまり「知らない」「忘れた」という2つのファクターにより、いかに大ヒットしたゲームの後日談であろうと、大ヒットは望めないと考えられます。
ところが…… §
ところが、そのような常識的な推定を裏切るようなFF7ACの大ヒットが現実に起こっているわけです。
それはなぜでしょうか?
理屈のない物語 §
実は、FF7ACには他のアニメ等の映像作品と比較して、極めて大きな特徴があります。
それは、固有名詞が台詞に出てくる頻度が驚くほど少ないということです。また、世界の約束事を理解しなければ把握できない描写も著しく少ないと言えます。これは、他作品と比較して、極めて顕著な特徴です。
このような特徴は、実は作品を見るために要求する予備知識の量を劇的に減らしています。ヒーローが悪を倒してハッピーエンド、というレベルでストーリーを納得するならば、
何ら予備知識は必要ないとすら言えます。そして、作品の主要な快楽は、それとは別の次元で提供されます。
それによって、「知らない」「忘れた」という2つのファクターは無効化されてしまったと言えます。
つまり、作品詳細を忘れていることは何ら問題ではなく、それどころか何も知らなくても楽しみ、納得できる結末にたどり着くことができるのです。(ただし、些末なディティールに目を奪われると、「予備知識があれば理解できるはずだ」という誤ったトラップに落ち込むリスクは存在します)
これこそが、FF7ACの驚くべき成功の理由と言えるかもしれません。
というわけで、いくつかのポイントからこれを見てみます。
バイクとマテリア §
FF7ACで、最も主要なギミックとなるのはバイクです。
バイクの疾走シーンは、それだけで見る者を魅了します。
乗る人が外からはっきり見えるので、演技もよく見えます。
更に、左右がジャキッと開き、多数の剣が出てくる仕掛けは、理屈を説明する必要が全くないにもかかわらず、極めて魅力的なメカニズムに見えます。
バイクから取り出した剣を使って戦うという映像のカタルシスを感じるために、理屈は全く必要ありません。
一方、FINAL FANTASY VIIの戦闘で最も重要なファクターとなるマテリアは、極めて面白い存在です。様々な特徴を持つマテリア。それらを上手く選択して武器のマテリア穴に装着することで発動する様々な特殊能力は、ゲーム的な面白さを盛り上げます。しかし、FF7ACでは、マテリアがマテリア穴に装着されることはありません。武器にはちゃんとマテリア穴が付いているにも関わらず、それが使われることはありません。カダージュ達はマテリアを使いますが、ほとんどカダージュの特殊能力の一部と見ても良いような描写になっており、マテリアの存在感は希薄です。また、最終決戦に際して、ユフィが「マテリア持ってきたよ~」と呼びかけていますが、それがクラウドの手に渡ることはありません。
これは、複雑なルールを持つマテリアをドラマの展開から除去してしまった英断と言えます。これによって、「知らない」「忘れた」人たちへの間口を広く取ることに成功しています。
固有名詞の少なさ §
たとえば、作中でバハムートという言葉は1回も出てきません。
もし、バハムートと呼んだ場合、バハムートとは何者かということを見ている者が気にしてしまうことがあるでしょう。それは「知らない」「忘れた」人たちには、悪印象を残します。
しかし、FF7ACでのバハムートの立場は単なるでかい怪物であり、そこに固有の意味を見出すことは必須の要求ではありません。バハムートを単なる怪物だと思っても、エンディングまでに問題は起こりません。
FF7ACは、特に必要のある固有名詞以外は、徹底的に排除されている作品という印象を持ちますが、それは間口を広げるために好ましい効果をもたらしていると感じます。
台詞の少なさ §
たとえば、テンゼルが倒れたティファに気付いてバハムートに突進するシーンですが。
普通の作品なら、「よくもティファを。許さないぞ、怪物め」といった台詞が出てくるようなシチュエーションですが、FF7ACでは「ティファ?」「このやろう」しかありません。
両者の台詞は、情報量が違います。前者の台詞は、テンゼルの心情の説明になっていますが、後者の台詞にはテンゼルの心情を具体的に推測させるような情報がありません。「ティファ?」は名前に過ぎず、「このやろう」は反射的に出てくる一種の叫びに過ぎないからです。
これによって、見る者は解釈を強制されなくなります。テンゼルがなぜバハムートに突進していったのか、その心情の詳細を考えて解釈する必要はなく、思ったままの理由を込めて見続けることができます。
解釈の必要がないということは、同時に予備知識の必要性が薄れることも意味します。もしも、予備知識が必要であるという印象を与えると「知らない」「忘れた」人たちには、悪印象を残します。
しかし、FF7ACはそのような悪印象のリスクをかなりのところまで回避していると言えます。
キャラクター描写 §
実は、クラウドの経歴は本作中ではほとんど説明されていません。
せいぜい、ルーファウスとの会話で、元ソルジャーが自称であることが強調されるぐらいです。
その代わりに、クラウドという人物の持つ特質は、人間関係から上手く浮かび上がるように構成されています。それを説明するための言葉は使われていません。
クラウドの強さは、カダージュ達との戦いや、ルーファウスの療養所でのレノやルドーとの戦いで示されます。
クラウドの優しさは、マリンとテンゼルという子供達から慕われることによって示されます。彼らから示される無条件の好意、戻ってきて欲しい、話をして欲しいという気持ちが、クラウドの善良さを浮き上がらせます。
しかし、クラウドの心の傷だけは、ティファの言葉や、クラウド自身の「許されたい」といった言葉により、台詞で説明されます。しかし、それはFF7ACにのみ存在するものであり、FINAL FANTASY VIIというゲームの中の出来事とは関係があるものの、厳密にはそれと同じものではありません。それは、事前の予備知識として要求されるものではないのです。
つまり、人物の描写において、「知らない」「忘れた」人たちへの間口は広く取られています。
理屈のない見せ場 §
アクションの見せ場は、たとえば股に挟んでバイクを投げるとか、飛んでくるバイクを剣で一刀両断であるとか、予備知識が必要ないどころか、そのシーンだけ切り取って見ても楽しめるような展開が多くあります。
このような構成のスタンスが、間口の広さを広げていることは間違いないでしょう。
結論・情報量を映像で伝えることの価値 §
キャラクター描写で見たような言葉を使わない描写の存在は、実は言葉に寄らない情報量が多いことを示唆します。つまり、言葉ではなく、映像による情報伝達です。
言葉を使わないことによって、より多くの情報を直感的に伝えることが可能になります。それを行うためには、極めて高い表現力が必要とされ、平均レベルの映像アーティストの手に負えるものではありません。
しかし、宮崎駿であるとか、傑出した才能はそれを可能とし、非凡な作品を作り出すことができます。
そして、そのような水準で見た場合に、FF7ACはまさにその水準で作られた非凡な作品ということができます。
宮崎アニメの間口の広さと、FF7ACの間口の広さは、実は同じ理由によるものと言うことができます。
FF7ACも、題材の選び方や営業的な売り方をもうちょっと工夫すれば、宮崎アニメのように日本人の誰もが愛する作品へと発展していく可能性があるでしょう。
そこから逆に考えれば、FF7ACが幅広く受け入れられていることも、当然のことだと言って良いでしょう。
そして裏側に見えてくるもの §
FF7ACの「間口の広さ」の「裏側」に見えるのは、逆に「間口を狭めている」最近のアニメ等の作品群の問題点です。台詞に頼り切ったストーリー展開、誤った「世界観重視」、理屈による整合性へのこだわり、約束事を受け入れていない視聴者の排除等々。それらは、明らかにアニメブームの初期には無かったものです。当時、詳細や世界観や設定などは、ファンが勝手に同人誌上で作るものであって、作品を作る上で必須のものではなかったはずです。しかし、それらを作品そのものが必須の構成要素として取り込むことで、作品から勢いや魅力が薄れたような気がします。
しかし、FF7ACは、それに対する1つのアンチテーゼを見せてくれた気がします。FF7ACにも世界観や詳細な設定や約束事はあります。しかし、それらを見る者に明確な形で押しつけようとはしません。FF7ACの面白さは、それらとは別の次元で描かれているのであって、それらは誰が見ても分かるようなものです。
これは、とても意義深いことに思えます。