スカルマンの最終回を見ましたが、いやこれは素晴らしい!
やったぜ、もりたけし監督!!
一度は「解毒」の可能性をちらつかせつつ、この小気味良い「毒」のある結末とは!!
予感された「解毒」 §
既に、本来仮面ライダーの原点であったはずのスカルマンが、このアニメ化において怪奇特撮映画への原点回帰を見せたことを指摘しています。
つまり、主人公が変身する仮面のヒーローであるという比較的後期のお約束ではなく、奇怪な能力を持つ謎の人物を人間の主人公が追い詰めるという比較的初期の特撮映画のパターンを採用した……ということです。
ところが、物語終盤において、「骸骨男」を追う側であったはずの主人公は、「骸骨男」の意志を受け継ぎ、自らが骸骨をかぶって「骸骨男」となります。
そして、彼は超常の力を手に入れてその力を用いて悪を倒しに行きます。
この段階において、「変身ヒーローを期待した読者にそれを与えない」という「毒」が「解毒」されたかのように予感されました。
つまり、比較的古い特撮映画のパターンから始まり、最終的に比較的新しい「視聴者に期待された」パターンへとシフトし、主人公がヒーローとなって悪を倒すカタルシスを残して終わるという予感です。
このようにして、当初提示された「毒」を「解毒」することによって、より結末の爽快感を高める演出なのか……と思ったのですが。
更なる「毒」 §
主人公は、救うべき女性を、もはや救うことが出来ない状況であるがゆえに、自らの手で殺してしまいます。
更に主人公は人体改造され、悪の組織のボスとして君臨します。
事情を知る探偵も路上で殺してしまいます。
つまり、当然のように期待されたはずの「正義の仮面ヒーロー」というイメージを最後の最後まで徹底的に否定しています。しかも、一度は「解毒」の予感まで与えておきながら、最終的に否定します。
この素晴らしい「毒」は逆説的にある種の爽快感をもたらしてくれます。
仮面という匿名性によって正体を隠しつつ、殴る蹴るで問題を解決してしまうあまりに粗雑で自己中な「ヒーロー」を否定することは、そのようなヒーローによって虐げられる側に立つ……と認識された者達からは爽快な結末と言いうるのです。
では、いったい誰がヒーローによって虐げられる側なのでしょうか?
基本的にヒーロー以外の全員がその立場に立ちうるのです。
世の中のたいていのことは、単純な価値観によって善悪を分けることができません。それにも関わらず、それを善悪に分けて正義を行うということは、本来悪とは言い切れないものを悪に分類し、必ずしも100%の正義とは言い切れないものを正義に分類することを意味します。そして、そのようにして得られた正義を行使すれば、必ず罰を受ける必要のない者に罰を与える状況が出現します。
そのような可能性に気付いた者から見れば、「正義のヒーロー」とはフィクション上においてのみカタルシスを発生させることができる虚構の記号にしかなりません。それが実在するという可能性は、「正義を標榜する悪」の存在の可能性とイコールとなります。
スカルマンが描いた結末とは、まさにこれでしょう。
決断と仮面ライダー §
もう、うろ覚えですが。
昔々、アニメンタリー決断というアニメ作品があり、その裏番組が仮面ライダーでした。
決断は、太平洋戦争の歴史的な戦いを題材にしたアニメによるドキュメンタリーです。題材の必然性から当然のごとく、視聴者が応援している日本側が勝てない事例が多く含まれます。
子供だった私は、決断を見ていました。
決断の放送が終わった後も、人気番組だった仮面ライダーは続いていました。そこで、仮面ライダーを見てあまりの物足りなさに愕然としました。
決断と対比すると、毎回ライダーが勝つ結末には説得力が感じられませんでした。しかも、殴る蹴るだけで問題が解決してしまいます。決断にはあった、込み入った指揮官の苦悩はそこにはありません。
そして時が流れて……。
こうしてスカルマンを見終わって思ったことは、要するにこれです。
決断の後に仮面ライダーを見たときに感じた「物足りなさ」を、完全に払拭してくれたよ!!
そういうわけで、個人的には実に意義深い作品でした。
(個人的には……なので、他人がどう感じるかはまったく考慮外の結論ですが)