2008年02月28日
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歴史ビギナー向け「史料」入門・「僕の見つけた過去の真実」が相手にされないのはなぜ?

Written By: 川俣 晶連絡先

ここで書くこと §

 ビギナー向け歴史入門……のようなものです。

 「のようなもの」ということから分かるとおり、この文章を「歴史入門」と信じて扱うと後で酷い目にあう可能性があります。

 ですから、内容を信じてはいけません。

 特に、この内容を学校のレポートに書いてはいけません。レポートは自分で考えて書きましょう。

 さて、ここで書くことをより具体的に言えば……。

 過去の出来事に対して決定的な証言や証拠となる文書を発見し、「歴史の真実」を発見したはずなのに、それが世間からあまり相手にされないのはなぜか……という理由について書きます。そして、なぜ歴史は面白いのか、という個人的な理由も最後に補足します。

発端 §

 話が回り道になりますが、発端から書いていくことにしましょう。

 少し古い話になりますが、私が2007年11月19日に書いた「歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観」に対して、biacさんは2007年11月23日 (金) Re: 歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観という文章を書きました。

 この文章には、見過ごすことのできない2つの問題があります。

 1つは、以下の箇所です。

ちなみに、 私は、 「過去は1つ」 = 「正しい歴史」 だと思ってますので、 私の言い方だと 「正しい歴史は存在するが、 それを知ることは原理的に不可能」 ってことになります。 f(^^;

 これは、私が「歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観」において以下のように述べた主張と真っ向から対立します。

 だから、過去は1つしか存在しないにも関わらず、「絶対唯一の正しい歴史」は原理的に存在し得ないものです。

 さて、あなたはどちらの解釈が正しいと思いますか?

 おそらく、biacさんの書いた「過去は1つ」 = 「正しい歴史」という解釈に賛同する人も多いと思います。

 もう1つはbiacさんの書いた以下の箇所です。

「記述の解釈を修正」 ですか?

「歴史はなぜ面白いのか」 の節で書かれていることからすると、解釈を修正することがあるのは構わない、 というか、 それがあるから面白いのですよね?

 さて、あなたはこの主張に賛同しますか?

 歴史を面白くするためには解釈を変えて良い、あるいは、解釈を変えねば歴史は面白くならないという考え方に賛同しますか?

 おそらく、賛同する人も多いでしょう。

 しかし、私の書いた文章に、解釈を変えて良いという主張は全く書かれていません。もちろん、勝手に解釈を変えるのは常識的にNGです。それにも関わらず、私は「歴史とは面白いものだ」と主張しているわけです。

 はたして、ここに出てきた2つの相容れない考え方は、本質的に何が違っていて、どちらが正しいのでしょうか?

うかつなのはどっちだ? §

 まず、歴史問題について考える最初の糸口から入りましょう。

 ここでは架空の事例として、以下のような事件があったとします。

  1. A国人のAさんが、過去の戦争においてB国の軍人に拉致され、強制労働させられたと証言した
  2. A国世論は、B国の非道さを非難する論調で盛り上がった
  3. B国人のBさんは、その当時のB国軍の公式文書を探し出し、強制労働など存在しなかったことを示した。あくまで任意で募集された労働者であり、しかも高給と良好な労働環境が与えられていたことを公式文書は示していた
  4. B国世論は、A国がありもしない事件をでっちあげて、B国を貶めようとしたという論調で盛り上がった

 さて、ここで問題です。

 A国世論とB国世論のどちらが正しいでしょうか?

 下にスクロールさせて続きを読む前に考えてみましょう。

答え・うかつなのは…… §

 うかつなのは両方です。

 証言が常に正しい、文書に記された情報が常に正しいと考えるのは、あまりにうかつすぎます。証言者が誠実であるとは限らないし、誠実であっても記憶が変わってしまうことは珍しくありません。文書についても、書いた本人や所属組織に不都合なことを書かない、あるいは表現をねじ曲げて書くことがあり得るし、書き間違いや勘違いもあり得ます。公式文書なら事実が書いてあると考えるのもうかつすぎます。書かれた内容に責任が降りかかる公式文書であればあるほど、不都合な真相が分かりにくい書き方を行う可能性があります。

成立しない完璧な論理 §

 それゆえに、以下のような「完璧な論理」は成立しません。

  1. AはBであるという証言が存在する
  2. BはCであるという公式文書が存在する
  3. ゆえにAはCである

 証言や文書は基本的に頼れない存在なのです。情報が無いから確実な過去は分からないのではなく、情報があっても確実な過去は分からないのです。そして、不確実な情報をいくら合成しても、それによって意味のある結果は出てきません。

まだ終わらない! §

 だから確実な過去は分からないので、自由に解釈して良い……と考えるのは間違いです。本当の歴史の面白さはここからスタートします。

「史料」とは何か? §

 上に書いた証言や文書のような「情報」は、一般的には「史料」と呼ばれます。

 「史料」は「資料」の誤記ではありません。WikiPediaの史料より引用します。

史料(しりょう、独:Quellen、英:Source、historical materials)とは、歴史を考察する上で手がかりになるもののことで、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含む。歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるあらゆるものが史料である(紙の代わりに古くは木簡・竹簡、粘土板、石板などにも書かれたが、これらは伝世品であれば「文献」と言い、出土品なら遺物と言いわけるのが一般的である)。

 しかし、これだけなら「史料」は「資料」と大差ありません。ただ単に、歴史通を気取るために「資料」と書けば良いのに、格好を付けて「史料」と書いているだけ……とも言えます。

 ところが、「史料」は単なる「資料」とは決定的に違う性質を持ちます。それを述べている部分を、WikiPediaの史料より引用します。

歴史の研究は史料に基づいて行う。しかし、例えば古い記録を一つ取ってみても、そこに書かれたことが事実であるとは限らない。人間にはあるがままの事実(客観)を書くことは不可能であり、その社会的立場やものの見方(主観)からしか表現できないからである。また、自己正当化のために不都合な点を省略したり、あえて虚偽を記す場合もある。

さらに写本で伝わる場合は転写の際に誤読、誤字脱字などが原因で、1文献で数種類の系統の写本が成立しているのが通常である。そのため、史料については史料批判の作業が欠かせない。

 つまり、「史料」とは「史料批判」という作業とワンセットで存在するものです。その点で、単なる「資料」とは一線を画しています。

歴史と史料は不可分 §

 実は、WikiPediaの「歴史」を見ると、「史料」と「歴史」は切り離せないほど密接な関わりがあることが分かります。以下、冒頭部分を引用します。

歴史(れきし)とは、人間社会の過去の出来事を、時間・空間的な分析を行い、因果関係を持って記述した史料。より広い意味では、出来事そのものを指す。また、人間社会以外の大きな事象に対しても、用いられる場合がある。(例:地球の歴史等)

 この文章は「歴史」に以下の3種類の解釈が存在することを示しています。

  1. 本来の意味は「史料」である
  2. 広い意味では「出来事」そのものである
  3. 人間社会以外に使われることもある

 このうち、3番目の解釈はこの文章で扱う対象外なので考えないことにします。

 さて、1番目の意味を考えてみましょう。この解釈では「歴史イコール史料」となります。史料の持つ曖昧さから、当然たった1つの歴史を導き出すことは事実上不可能です。

 では、2番目の解釈はどうでしょうか? この解釈は、史料という間接的な情報ではなく、過去の出来事そのものを「歴史」と定義づけています。これなら「歴史は1つ」と主張できます。しかし、この主張には意味がありません。過ぎ去った過去を直接見ることができない以上、曖昧さを持つ史料を通して語るしかないからです。そして、それは既に1つではありません。

 つまり、語るという行為を前提とする限り、歴史は史料と不可分であり、「歴史は1つ」という主張はあり得なくなります。

ここまでの結論 §

 「歴史」とは実質的に「史料」とイコールであり、「史料批判」とワンセットです。

 それゆえに、適切な史料批判とセットになっていない「歴史」は、本質的に「歴史」としての要件を満たしておらず、論評に値しないと言えます。

 だから、表題に書いた『「僕の見つけた過去の真実」が相手にされないのはなぜ?』という問い掛けに対する答は、たいていの場合「適切な史料批判ができていないからだ……」と結論づけられます。

 言い換えれば、史料批判という概念そのものが存在しないか、あるいはそのための手法が適切ではないことになります。

実は難しい「史料批判」 §

 では、「史料批判」さえ適切に行えば「歴史」の仲間入りができるのか……といえば、それほど単純な話ではありません。なぜかといえば、「史料批判」とはとてもつなく難しい作業だからです。

 まず、史料は「本物」「偽物」という2つに分類できません。部分的に疑わしいが大筋ではあてになる史料もあるし、明らかに事実ではない俗説が書かれているという点に史料としての価値が発生することもあります。事実の記録ではない可能性が高いが、虚偽とまでは言い切れない……といった非常に微妙な評価を下すこともあります。そして、そのような微妙な評価のまま活用しなければならないこともあります。

 また、史料の妥当性を見るためには、広範囲の知識、常識が必要とされます。たとえば、現在の常識を適用して史料を読むのは典型的な誤りです。とすれば、当然史料の書かれた時代の常識を適用して読まねばなりませんが、常識は時代ごとに変化しています。たとえば、江戸時代の道路網は江戸を中心に発達していますが、鎌倉時代、室町時代の関東の街道は鎌倉を中心に発達していました。つまり、要求される知識量は膨大であるというだけでなく、それを適切に使い分ける必要性も発生します。

 また、たった1つの史料だけで妥当性を評価することは出来ません。他の史料と相互に照らし合わせることで、妥当性を見極める必要が発生します。

 つまり、史料批判というのは、複数の史料を揃え、広範囲の知識を持ち、しかもそれを適切に使い分けることができねば実行できないわけです。それに要する負荷は大きいので、そう簡単にはできないと思って間違いないでしょう。いくら、確実にチェックしたと思っても、チェック漏れの指摘1つで全てが崩壊してしまうこともあります。

 そして、それだけの苦労を積み重ねたとしても、100%確実な何かが分かることは希です。

実は簡単なトンデモ歴史の指摘 §

 確実な歴史がなかなか分からないとしたら、思いつきで適当に言った歴史の嘘もなかなかばれないのでしょうか?

 これはノーです。

 なぜかといえば、「史料批判の手順が無い、あるいは不備が大きい」にも関わらず、確実な歴史が分かったと称する行為そのものが、一種のトンデモ歴史の証明になるからです。結果として結論が正しいとしても、それに意味はありません。適切な史料批判抜きで到達した結論には根拠がないからです。根拠がなければ結論の妥当性を検証することもできません。

 だから、トンデモ歴史は簡単に指摘できるのです。過去の事実とは無関係に、現在時制で行われる史料の扱いを見るだけで、指摘できるのです。過去が明確に分からないことは問題ではありません。現在を見るだけで分かるのです。

歴史の面白さとは §

  • 過去の事実として信じられている多くの俗説が、実は根拠となる史料を欠いていたり、適切な史料批判を欠いていることが分かる
  • 適切に史料を読んでいくと、俗説とは違う過去像が見えてくる (鮮明ではないが、ある程度は見える)

 つまり、常識がひっくり返るわけですね。

 個人的には、実にワクワクして面白いことです。

後書き §

以上は、歴史ミーハーのたわごとなので、けして信じてはいかんぞ! 何かを思うなら、まずはこの文章の内容をきちんと批判的に検証するんだ! 君と僕との約束だ!

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歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観
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歴史ビギナー向け「史料」入門・「僕の見つけた過去の真実」が相手にされないのはなぜ?

Written By: 川俣 晶連絡先

ここで書くこと §

 ビギナー向け歴史入門……のようなものです。

 「のようなもの」ということから分かるとおり、この文章を「歴史入門」と信じて扱うと後で酷い目にあう可能性があります。

 ですから、内容を信じてはいけません。

 特に、この内容を学校のレポートに書いてはいけません。レポートは自分で考えて書きましょう。

 さて、ここで書くことをより具体的に言えば……。

 過去の出来事に対して決定的な証言や証拠となる文書を発見し、「歴史の真実」を発見したはずなのに、それが世間からあまり相手にされないのはなぜか……という理由について書きます。そして、なぜ歴史は面白いのか、という個人的な理由も最後に補足します。

発端 §

 話が回り道になりますが、発端から書いていくことにしましょう。

 少し古い話になりますが、私が2007年11月19日に書いた「歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観」に対して、biacさんは2007年11月23日 (金) Re: 歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観という文章を書きました。

 この文章には、見過ごすことのできない2つの問題があります。

 1つは、以下の箇所です。

ちなみに、 私は、 「過去は1つ」 = 「正しい歴史」 だと思ってますので、 私の言い方だと 「正しい歴史は存在するが、 それを知ることは原理的に不可能」 ってことになります。 f(^^;

 これは、私が「歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観」において以下のように述べた主張と真っ向から対立します。

 だから、過去は1つしか存在しないにも関わらず、「絶対唯一の正しい歴史」は原理的に存在し得ないものです。

 さて、あなたはどちらの解釈が正しいと思いますか?

 おそらく、biacさんの書いた「過去は1つ」 = 「正しい歴史」という解釈に賛同する人も多いと思います。

 もう1つはbiacさんの書いた以下の箇所です。

「記述の解釈を修正」 ですか?

「歴史はなぜ面白いのか」 の節で書かれていることからすると、解釈を修正することがあるのは構わない、 というか、 それがあるから面白いのですよね?

 さて、あなたはこの主張に賛同しますか?

 歴史を面白くするためには解釈を変えて良い、あるいは、解釈を変えねば歴史は面白くならないという考え方に賛同しますか?

 おそらく、賛同する人も多いでしょう。

 しかし、私の書いた文章に、解釈を変えて良いという主張は全く書かれていません。もちろん、勝手に解釈を変えるのは常識的にNGです。それにも関わらず、私は「歴史とは面白いものだ」と主張しているわけです。

 はたして、ここに出てきた2つの相容れない考え方は、本質的に何が違っていて、どちらが正しいのでしょうか?

うかつなのはどっちだ? §

 まず、歴史問題について考える最初の糸口から入りましょう。

 ここでは架空の事例として、以下のような事件があったとします。

  1. A国人のAさんが、過去の戦争においてB国の軍人に拉致され、強制労働させられたと証言した
  2. A国世論は、B国の非道さを非難する論調で盛り上がった
  3. B国人のBさんは、その当時のB国軍の公式文書を探し出し、強制労働など存在しなかったことを示した。あくまで任意で募集された労働者であり、しかも高給と良好な労働環境が与えられていたことを公式文書は示していた
  4. B国世論は、A国がありもしない事件をでっちあげて、B国を貶めようとしたという論調で盛り上がった

 さて、ここで問題です。

 A国世論とB国世論のどちらが正しいでしょうか?

 下にスクロールさせて続きを読む前に考えてみましょう。

答え・うかつなのは…… §

 うかつなのは両方です。

 証言が常に正しい、文書に記された情報が常に正しいと考えるのは、あまりにうかつすぎます。証言者が誠実であるとは限らないし、誠実であっても記憶が変わってしまうことは珍しくありません。文書についても、書いた本人や所属組織に不都合なことを書かない、あるいは表現をねじ曲げて書くことがあり得るし、書き間違いや勘違いもあり得ます。公式文書なら事実が書いてあると考えるのもうかつすぎます。書かれた内容に責任が降りかかる公式文書であればあるほど、不都合な真相が分かりにくい書き方を行う可能性があります。

成立しない完璧な論理 §

 それゆえに、以下のような「完璧な論理」は成立しません。

  1. AはBであるという証言が存在する
  2. BはCであるという公式文書が存在する
  3. ゆえにAはCである

 証言や文書は基本的に頼れない存在なのです。情報が無いから確実な過去は分からないのではなく、情報があっても確実な過去は分からないのです。そして、不確実な情報をいくら合成しても、それによって意味のある結果は出てきません。

まだ終わらない! §

 だから確実な過去は分からないので、自由に解釈して良い……と考えるのは間違いです。本当の歴史の面白さはここからスタートします。

「史料」とは何か? §

 上に書いた証言や文書のような「情報」は、一般的には「史料」と呼ばれます。

 「史料」は「資料」の誤記ではありません。WikiPediaの史料より引用します。

史料(しりょう、独:Quellen、英:Source、historical materials)とは、歴史を考察する上で手がかりになるもののことで、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含む。歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるあらゆるものが史料である(紙の代わりに古くは木簡・竹簡、粘土板、石板などにも書かれたが、これらは伝世品であれば「文献」と言い、出土品なら遺物と言いわけるのが一般的である)。

 しかし、これだけなら「史料」は「資料」と大差ありません。ただ単に、歴史通を気取るために「資料」と書けば良いのに、格好を付けて「史料」と書いているだけ……とも言えます。

 ところが、「史料」は単なる「資料」とは決定的に違う性質を持ちます。それを述べている部分を、WikiPediaの史料より引用します。

歴史の研究は史料に基づいて行う。しかし、例えば古い記録を一つ取ってみても、そこに書かれたことが事実であるとは限らない。人間にはあるがままの事実(客観)を書くことは不可能であり、その社会的立場やものの見方(主観)からしか表現できないからである。また、自己正当化のために不都合な点を省略したり、あえて虚偽を記す場合もある。

さらに写本で伝わる場合は転写の際に誤読、誤字脱字などが原因で、1文献で数種類の系統の写本が成立しているのが通常である。そのため、史料については史料批判の作業が欠かせない。

 つまり、「史料」とは「史料批判」という作業とワンセットで存在するものです。その点で、単なる「資料」とは一線を画しています。

歴史と史料は不可分 §

 実は、WikiPediaの「歴史」を見ると、「史料」と「歴史」は切り離せないほど密接な関わりがあることが分かります。以下、冒頭部分を引用します。

歴史(れきし)とは、人間社会の過去の出来事を、時間・空間的な分析を行い、因果関係を持って記述した史料。より広い意味では、出来事そのものを指す。また、人間社会以外の大きな事象に対しても、用いられる場合がある。(例:地球の歴史等)

 この文章は「歴史」に以下の3種類の解釈が存在することを示しています。

  1. 本来の意味は「史料」である
  2. 広い意味では「出来事」そのものである
  3. 人間社会以外に使われることもある

 このうち、3番目の解釈はこの文章で扱う対象外なので考えないことにします。

 さて、1番目の意味を考えてみましょう。この解釈では「歴史イコール史料」となります。史料の持つ曖昧さから、当然たった1つの歴史を導き出すことは事実上不可能です。

 では、2番目の解釈はどうでしょうか? この解釈は、史料という間接的な情報ではなく、過去の出来事そのものを「歴史」と定義づけています。これなら「歴史は1つ」と主張できます。しかし、この主張には意味がありません。過ぎ去った過去を直接見ることができない以上、曖昧さを持つ史料を通して語るしかないからです。そして、それは既に1つではありません。

 つまり、語るという行為を前提とする限り、歴史は史料と不可分であり、「歴史は1つ」という主張はあり得なくなります。

ここまでの結論 §

 「歴史」とは実質的に「史料」とイコールであり、「史料批判」とワンセットです。

 それゆえに、適切な史料批判とセットになっていない「歴史」は、本質的に「歴史」としての要件を満たしておらず、論評に値しないと言えます。

 だから、表題に書いた『「僕の見つけた過去の真実」が相手にされないのはなぜ?』という問い掛けに対する答は、たいていの場合「適切な史料批判ができていないからだ……」と結論づけられます。

 言い換えれば、史料批判という概念そのものが存在しないか、あるいはそのための手法が適切ではないことになります。

実は難しい「史料批判」 §

 では、「史料批判」さえ適切に行えば「歴史」の仲間入りができるのか……といえば、それほど単純な話ではありません。なぜかといえば、「史料批判」とはとてもつなく難しい作業だからです。

 まず、史料は「本物」「偽物」という2つに分類できません。部分的に疑わしいが大筋ではあてになる史料もあるし、明らかに事実ではない俗説が書かれているという点に史料としての価値が発生することもあります。事実の記録ではない可能性が高いが、虚偽とまでは言い切れない……といった非常に微妙な評価を下すこともあります。そして、そのような微妙な評価のまま活用しなければならないこともあります。

 また、史料の妥当性を見るためには、広範囲の知識、常識が必要とされます。たとえば、現在の常識を適用して史料を読むのは典型的な誤りです。とすれば、当然史料の書かれた時代の常識を適用して読まねばなりませんが、常識は時代ごとに変化しています。たとえば、江戸時代の道路網は江戸を中心に発達していますが、鎌倉時代、室町時代の関東の街道は鎌倉を中心に発達していました。つまり、要求される知識量は膨大であるというだけでなく、それを適切に使い分ける必要性も発生します。

 また、たった1つの史料だけで妥当性を評価することは出来ません。他の史料と相互に照らし合わせることで、妥当性を見極める必要が発生します。

 つまり、史料批判というのは、複数の史料を揃え、広範囲の知識を持ち、しかもそれを適切に使い分けることができねば実行できないわけです。それに要する負荷は大きいので、そう簡単にはできないと思って間違いないでしょう。いくら、確実にチェックしたと思っても、チェック漏れの指摘1つで全てが崩壊してしまうこともあります。

 そして、それだけの苦労を積み重ねたとしても、100%確実な何かが分かることは希です。

実は簡単なトンデモ歴史の指摘 §

 確実な歴史がなかなか分からないとしたら、思いつきで適当に言った歴史の嘘もなかなかばれないのでしょうか?

 これはノーです。

 なぜかといえば、「史料批判の手順が無い、あるいは不備が大きい」にも関わらず、確実な歴史が分かったと称する行為そのものが、一種のトンデモ歴史の証明になるからです。結果として結論が正しいとしても、それに意味はありません。適切な史料批判抜きで到達した結論には根拠がないからです。根拠がなければ結論の妥当性を検証することもできません。

 だから、トンデモ歴史は簡単に指摘できるのです。過去の事実とは無関係に、現在時制で行われる史料の扱いを見るだけで、指摘できるのです。過去が明確に分からないことは問題ではありません。現在を見るだけで分かるのです。

歴史の面白さとは §

  • 過去の事実として信じられている多くの俗説が、実は根拠となる史料を欠いていたり、適切な史料批判を欠いていることが分かる
  • 適切に史料を読んでいくと、俗説とは違う過去像が見えてくる (鮮明ではないが、ある程度は見える)

 つまり、常識がひっくり返るわけですね。

 個人的には、実にワクワクして面白いことです。

後書き §

以上は、歴史ミーハーのたわごとなので、けして信じてはいかんぞ! 何かを思うなら、まずはこの文章の内容をきちんと批判的に検証するんだ! 君と僕との約束だ!

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