私が過去を見る前提として、昔の人は現代人よりも合理的である、という推定があります。なぜかといえば、使用できる資源が乏しい昔において、何か大きなことを成し遂げたとすれば、乏しい資源を有効活用する合理性の存在が当然予測されるからです。科学技術と資源の浪費によって強引に辻褄を合わせるようなやり方は、少なくとも明治以後にならねば多用はできません。
……という前提から考えると、神社や仏閣には、単なる宗教施設という枠組みを超えて、政治的、経済的、軍事的な意味が含まれていた可能性が高いと推測されます。
そのような観点から下高井戸八幡神社を見た疑問とアイデアをメモっておきます。
「疑問とアイデア」であって「確定した結論」ではないことに注意!
下高井戸八幡神社とは §
開運厄除け下高井戸八幡神社ご挨拶より
社伝では長禄元年の創建、太田道灌が江戸城築城の際家臣柏木左右門に命じて鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を観請し県立いたしました。
(「観請」は「勧請」の誤記と思われる)
長禄元年は1457年です。
古い航空写真を見て気付いたこと §
昭和20年代~30年代の航空写真を見てハッと気付いたのは、周辺は水田ばかりなのに、ここだけ木が茂っていて神社になっている点です。武蔵野台地は水が乏しく、農業にあまり適しません。神田川の水が豊富に使える神田川周辺は、それに対する貴重な例外とも言えます。農業用水を開削しなくても水が使えるわけですから。だから、住居は高台に置き、水田を水を引き込みやすい低地に置くのが昔の下高井戸の基本形だと思っていました。
ところが、神田川沿いの貴重な低地に下高井戸八幡神社はあるのです。
神社ならそれほど水も使わないだろうし、高台の上に作れば良さそうに思えるのに、これは不自然です。ちなみに、下高井戸には多くの寺がありますが、これらはおおむね高台の上にあります。
下高井戸八幡神社の機能性 §
「江戸城の安全を祈願する」といった宗教的な機能性を横に置いて、実務的な機能性を考えると、やはり神田川沿いに拠点施設を置く必然性があったと考えるのが妥当でしょう。
では江戸城と太田道灌から見て、神田川の何がメリットであるのか?
水資源、軍事の側面もあり得ますが、やはり「築城の際」という点に着目すると、築城のために資材を神田川経由で運ぶための物流中継点としての機能が大きいのではないか……と考えてみました。
ちなみに、都市化する前の杉並は、木材の供給地としての機能性も持っていました。
川幅が広がっている? §
Yahoo!地図の昭和レトロ地図は意外と重宝します。割とよく位置合わせがなされているので、地図と航空写真、昭和30年代と現在を比較して調べやすいので。しかも、神田川は流路の改修前です。
さて、これを見ているときにはたと気付いたことがあります。
昭和30年代の地図で、神田川が下高井戸八幡神社の北側、すぐ裏手で広くなっているのです。
これを見て、ハッとしました。
川が広くなっているなら、そこに船を係留できます。下高井戸八幡神社=物流中継点というアイデアとマッチします。
現在はもう残らない §
神田川の流路が改修されてしまったので、もう川の幅の差は残っていません。
ただ、改修で広がった部分を割り引いても下高井戸八幡神社の裏手は割と広く、お祭りでは裏手にも一群の店が出るほどです。この広さは、物流中継点としての機能から必然的に要求されたもの、と考えれば辻褄が合うのかも知れません。
いや、それが本当かどうかは分かりませんが。
まとめ §
このアイデアの長所は、水田を作るのに適した貴重な土地に、なぜ神社を造らねばならないのか、という必然性を示すことができる点です。昔の人は合理的であった、という前提を取るなら、これは重要。
もっとも、このアイデアが正しいという保証にはなりませんが。
オマケ・更に話を進めれば §
下高井戸が神田川経由の物流中継点としての機能を持っていたとすると、とりたてて何もない農村というイメージが変わります。
1457年以降、下高井戸は豊富な水を背景にした積極的な農業を行うと同時に、江戸に対する水運の拠点としても機能したことになります。
とすれば、なぜ甲州道中(甲州街道)の最初の宿場町が「下高井戸」であったのか、という理由も何となく見えてきます。それは江戸城がらみの重要な拠点であり、宿場町を背負うに値する物流拠点だったわけです。
だから、下高井戸は甲州道中(甲州街道)によって街としての繁栄を始めたのではなく、既に何らかの小規模な繁栄があってそれが甲州道中(甲州街道)と宿場町としての役割を引き寄せたという可能性も考えられます。それは、「遠すぎる」として新宿ができてしまうほど遠い場所に、なぜ宿場町を作ったのかという理由付けになるかもしれません。
更に空想を発展させれば、そもそも最初から下高井戸は神田川上の水運物流拠点の1つであり、下高井戸八幡神社はその拠点を太田道灌が掌握するために勧請したもの、という解釈もあり得ます。
全ては、仮定に仮定をつないだ夢想に過ぎませんが。
とりあえず、太田道灌による江戸城築城の話には、少し注意を払ってみようと思います。思った以上に下高井戸のあり方と関連するかもしれません。