話は相前後してしまいますが、一応27巻の全般的な感想を書いておきましょう。
予想を上回った §
ラカンが最初に倒れるまでは、大枠としては予想通りでした。序盤の主人公優勢はセオリー通りです。雷化による高速移動などのアイデアには驚かされましたが、そこまでは漠然とした予測の範囲内です。
ところが、その後の展開は予想を2枚も3枚も上回っていきます。
ラカンがネギに驚いたように、こちらもネギま!に驚かされました。
そもそも、ラカンが昔話をしてアリカを描いてしまった時点で、完全に物語はピーク、転換点になり、このあとは穴を埋める消化試合的な展開になっていくだろう……と感じていました。しかし、この予測は完全にネギま!と赤松さんをなめてました。すみません。私の完全な間違いでした。
それにしても本当に凄い作品ですよ。
そのあたりを更に書くと。
トサカと亜子 §
トサカと亜子は、全力全開で勝てそうな主人公の足を引っ張る、否定的な要素として絡んでくるような気がしていました。(そういう印象を持つように、前巻までは描かれているしね)
しかし、実際はその逆。というよりも、この2人こそがネギ勝利のキー要素となる逆転の意外性。
主役になれないわたし §
トサカと亜子が持っている「主役になれないわたし」という属性も泣かせるいい話です。頂上決戦のエピソードともなれば、前回優勝者のチコタン^H^H^H^Hザイツェフさんですら扱いの小さな解説者。まして、何の特殊能力も持たない一般人はゴミのような存在として作中から存在感が排斥されかねません。しかし、この27巻においては、そのような者達こそがネギを支える主要な存在として大きく描かれたという点が実に素晴らしい!
つまりこの構成によって、「私はヒーローではない」という認識をしっかり心に刻み込んだ「もう子供ではない読者」が作中に歓迎されています。
更に言えば、勇気を持って踏み出せば、ヒーローではない私でも決定的な役割を果たせることも示され、それはネギにもラカンにも感情移入できない読者に暖かい希望を与えます。
自力で乗り越える亜子 §
もう1つ素晴らしいのは、亜子がナギの正体を自力で発見して自力でそれを乗り越える点です。他人に頼ったのは、アキラを相手に泣くときだけです。
つまり、こういった失恋キャラは物語構成上「問題をこじらせる」役割を与えられることが多いにも関わらず、それを良い意味で裏切る意外性を持って「肯定的」かつ「前向き」の役割を与えられているのが素晴らしいところです。
※ こういった、「女性をなめていない」描写こそが、ネギま!が女性読者のために用意しているものかもしれません。
捨て駒 §
もう1つ素晴らしいのは、ネギ自身から「捨て駒役」と言われ、それを喜んで引き受けて遂行する小太郎です。これには真の意図を隠蔽するための「台詞」という要素もあるでしょう。しかし、捨て駒を依頼するネギの気遣いと、その役割を喜んで担う小太郎の態度も見事。
ここにあるのは、やはり「主役になれないわたし」への暖かい視線です。それは、主役であるネギから小太郎に向けられる視線でもあるし、同時にネギ自身もラカンを前にして「主役になれない自分」を感じていることを意味します。ネギは小太郎を捨て駒にして、やっと戦える水準なのです。
つまり、「私はヒーローではない」という認識をしっかり心に刻み込んだ「もう子供ではない読者」は、主人公が勝利するための必須の要素としての「捨て駒」として貢献できる可能性があるかもしれないと思うことができ、ネギからいたわりの言葉ももらうことで作中に歓迎されます。
僥倖だ §
27巻最大の見せ場はこの台詞でしょう。
明らかに子供が使う台詞ではありません。
いや、大人でもまず使わないでしょう。
この段階で、ネギは精神面において既に成熟した賢人になっていることを示します。
それは、ネギが既に読者が感情移入する対象になっていないことを示します。
この段階において、「私はヒーローではない」という認識を未だに持っていない未熟な者達が「僕=ヒーロー」としてネギに感情移入することを明瞭に拒絶します。
(いやまあ、そもそも「僥倖」がピンと来なければ感情移入し続けるかもしれませんが。それはそれとして)
このヒーロー性への同一化の拒絶は、間接的に「主役になれないわたし」への暖かい視線とも解釈できます。
そして、このあと読者はむしろラカンと同じ立場で、ネギが繰り出す新術と戦略に驚く立場に経たされます。
保険です §
全てが終わった時点でも、まだ保険として魔法を温存していたネギ。この周到さは、ある意味で当然です。何もかも全力で出し切る……など、本当の勝利を求める者がやることではありません。保険を知る前にラカンはネギに合格を出していますが、保険を知ると「ここまでとは思わなかった」と更に相好を崩します。
つまり、勝利を自明のものとせず、様々な手を用意しておくことが「本来あるべき強者」の資質であり、正々堂々と全力を出し切ることではない、と言えます。
これは、たとえば「本当に優れた戦闘機乗り」の資質が「卓越した空戦技量」による「正々堂々の空中戦」にないこと等にも符合し、極めてリアリティのある優れた描写です。
ちなみに「保険」というのは、ラカンの回想でラカン自身が詠春に対して使った策でもあります。
手をさしのべて殴り合い §
最後の殴り合い、ラカンが倒れたネギにてをさしのべてネギが応じたかのように見せかけて相互に殴る展開も見事。2人は同じ次元に生きていることが良く分かります。更に言えば、そういう「引っかけ」が互いの信頼と友愛を確かめる男の子っぽい手段として有効に機能しています。
この場で、ラカンは同じ水準で殴り合える相手を得てとても嬉しかったのでしょう。
それは、「正々堂々と力をぶつけるだけの男」ではありません。逃げることも引っかけることも保険を掛けることも知っている、「本物の強者」という意味です。
全般的に §
こうしてあらためて感想を書いてみると、27巻のテーマは「主役になれないわたし」ではないか、という気がします。おそらく実際には登場人物の全員が実際には「主役になれないわたし」でしょう。ラカンやネギは主役のように見えますが、ネギはラカンのようになれない苦悩を持っているし、ラカン自身も実際は「苦労してはい上がってきた」「主役になれないわたし」であることが示されます。
つまり、結果として主役であるかのように場の中心に立てる根拠は、実は誰もが信じる「主役の資質」には無いことを意味します。最初から人間に「主役」と「脇役」の差があるわけではなく、単に修行すれば強くなって主役になれるというわけでもなく、実際に必要とされるのは27巻でネギが示したような様々な態度、思い、方策などでしょう。それがあって初めて、主役という看板を背負えます。そう、それは背負った看板であって、本人の一部ではありません。
だから、身体を張って背負う覚悟を決めれば、亜子やトサカでも「その場の主役」になりうるわけですね。
そういう意味でまさに「主役になれないわたし」に優しい話だったと思います。
だから本当に素晴らしいですよ。読者としての私の居場所は作中にしっかりとありました。(実は、最も感情移入できるのはトサカあたりかもしれない)
いや本当にネギま!という作品は破格に素晴らしい!