最近、ひしひしと「ある時代の終わり」を感じています。
- GNO 昨日終わった!
- アニメ めっきり質が落ちました。凄いアニメは凄いですが、かなり少ないと思います
- 特撮 めっきり質が上がりました。しかし、良い特撮が放送されていても、見たいというモチベーションに直結しません
- ネギま! 徐々にネタばらしを始めていて終わりが見えてきました
- AJAX 2002年頃はWebブラウザといってもIE6とFirefox 1.0~1.5ぐらいしか無く、アプリを書いてもテスト可能でしたが今はSafariやChromeなども増えて、IEもバージョンが増えて実質的にテスト不可能。つまり、ブームは終わってますが、自分たちがブームを殺したという実感もなくWebブラウザを増やし続ける行為をする者達は多い
- 地デジたたき収束 無制限コピーを取る技術が確立されたら収束したような気がします。要するに地デジを叩いていた人の大多数は泥棒と予備軍? 昔はネットで地デジを叩いていたが、今はPT2が入荷するとショップに走る? (私は持ってないし、並びもしない。地デジはケーブルSTB経由で見られるけどね。アナログTVで)
- 仕事がめっきり減った そりゃあマニアが編集者を気取ってマニアに原稿を発注していたらプロに依頼は来ませんね。高すぎるから。というか、本来はマニアが安く買いたたかれ過ぎているのです
- 金がめっきり減った 何も言うまい
- ネットであまり語らなくなった 本当に価値があることは有料だよ
- コミックを見てもあまりときめかない マンガ読みとしての山を越えたか
- ANGF開発開始 実はフレームワーク的なプログラムを昨日から書き始めてコーディングも別の世界に入りつつある感じ。ANGFはまだ何の略か内緒
- ドボク系という趣味を知ったが民主党はドボク的な物件(高速道路など)に予算を付けない せっかく滝坂近くにジャンクションができる計画があると知って喜んでいたら民主党が予算を削り始めてがっかり
- オタクはすっかり馬鹿になった もはや完全に仲間ではない。私は萌え作品などはほとんど見ていないし、作品名やキャラ名を聞いてもさっぱり分からないし興味もない
- すれ違い通信 ドラクエ9発売が2009年7月でこれを書いているのが12月。めっきり人も減りました
- ACE COMBAT 新作のため、かっこわるいアイテムの代名詞だったApple製品を買うか と思うのはかなり時代が変わったと思うべき
- 新OS Azureは本当の意味での新OSだとSQL込みで使ってみて思い知りました
しかし、ある種の脱力感があるから大きな節目だとは思いますが、単なる原点回帰であって、次の時代へ進むためのスタートラインだとも言えます。という話を枕として。全てが終わった感じがあっても私が次へ進む理由はこれでしょう。
境界人という概念 §
境界人とは、ここでは以下のように規定します。
更に以下の概念を追加します。
- 恒久的境界人 本能的にジャンルの境界に自分を位置づけ続けるタイプの人
- 一時的境界人 たまに一時的にジャンルの境界いた人
とすれば、私は「恒久的境界人」です。
さて「境界人」は分かりにくいと言えます。なぜなら、「XXの人」という簡単な理解では把握できないからです。
その結果、以下のような反応を引き起こします。
ちなみに、私はそれほど攻撃的ではないし、他人の欠陥はできるだめ目を閉じて良いところを探すタイプです。ですから、普通であればそれほど敵視はされないはずです。
それにも関わらず敵視されるとすれば「目に余る馬鹿っぷりで私を否定しようとする発言を私から引き出そうとする」か、あるいは上です。
ここでは、2つめつまり「過剰に敵視される」について考えます。
なぜ、過剰に敵視されるのでしょうか?
その理由はおそらく「カテゴライズできない」からでしょう。つまり境界人はジャンルに属さないという意味で「XXの人」と理解できないのです。
ではその場合のリアクションはどうなるでしょうか?
まず、分からないものに好意は持てません。第1の選択肢はまずありません。とすれば、放置と敵意しかありません。しかし、物事には正しい理解があり、論理的に考えればすべて分かるという19世紀的な信念を持つ人も珍しくありません。彼らは「分からないことは分からない」という放置ができません。従って、残された唯一の対応である「敵意」を持つしかありません。
では、その敵意の対象は何でしょうか?
まず、私は彼の「敵」ではないことが第1の前提です。
とすれば、彼が敵意を抱いて見ている「敵」は実在しないことになります。
では、彼が見ている「敵」とは何でしょうか?
おそらく、彼が作り出した空想上の敵でしょう。
従って、境界人は実際に敵として振る舞っていない場合でも、敵として叩かれねばなりません。
実際に、1990年代前半にOS/2信者から向けられた敵意の正体はこれでしょう。私はOS/2を否定していないが、いくつかの理由から本命はNTで(これは当たった)、保険がPC UNIX(FreeBSDやLinux)と言っただけで、別にOS/2信者の敵に回ったつもりもないし、別の何かの信者にすらなっていません。要するに使えさえすれば何でもよく、誰の敵にもなっていません。が、敵視されたということは、彼らが見ていた敵は「彼らの想像上の敵」であって、生身の私ではないでしょう。(彼らが私から厳しい言葉を掛けられる理由は、結局「敵」だからではなく「それに気づかない馬鹿さ」にあったといえます。つまり彼らは自分で掘った穴に自分で入っただけです)
……というアイデアを考えてみましたが信じてはいかんぞ。