この物語はフィクションであり、実在する何かとの関係は全くありません。
ねえちょっと聴いてよ。
アタシったらナンパされたのよ。
いつも通り、使い魔の蛇で締めてお金だけもらって帰ろうと思ったんだけどさ。
あいつ、こっちの正体を知ってたわよ。
いきなり、私のことを蛇場美(ジャバミ)って言ったもの。
かつて妖(アヤカシ)達が多く住んだ下高井戸は本来、下多怪土(シモタカイド)と表記した、なんて話はとっくに昔話よ。そりゃ、太田道灌が神社を下多怪土に勧請した頃は、江戸城の堀の上流部の防備を妖(アヤカシ)達に頼んできたけどさ。そうそう、徳川家康もそうだっけ。おかげで脱出経路として大名もろくに通らない街道を設定して、下高井戸も通したんだっけ。本当は滝坂から渋谷の方を通る道だったはずなのに、強引に下高井戸を通るようにしたんだっけ。でも、後から「やっぱり妖(アヤカシ)は怖い」とかいって新宿にも宿場町を作ったりしたけどさ。
つまり、かなり昔の話よ。カモフラージュに多怪土を高井戸と書いたのも、異なる語源の異説を流布したのも昔の話。間違って、高井戸を高井土って書くのも昔の癖が出ただけね。
でも、あいつはそのへんの委細は全部知ってるみたいだたわ。
蛇の弱点の冷気で攻めてきたし。
最初は敵の正体が分からなくて焦ったわよ。もしかしたら、玉川兄弟の恨みを今頃ってことも考えたわよ。だって。玉川上水の工事が、下高井戸で一時ストップしたのは事実だもん。あのときは、妖(アヤカシ)達との交渉が上手くまとまらなくてねえ。ずいぶんすったもんだしたものよ。
え? 夜になれば別のすったもんだをしたんだろうって?
そりゃまあ、玉川兄弟が2人一緒で迫ってきた夜が無かったとは言わないけどさ……。
で何だって?
相手の正体だって?
どうやら日本人の男に化けていたけど、雇われた西洋の妖怪みたいね。
もちろん倒したわよ。
こっちも百戦錬磨の強者なんだから。
でもさ、下多怪土にはどうやら敵がいるってことは確かなようね。関東大震災以来、事情を知らない移住者が増えて、大多数は平凡な人間よ。もう私が住んでいたから小字名を蛇場美にしようって話も既に大昔だわ。もはや、蛇場美という小字を知らない人の方が多いぐらいよ。
ところで、蛇って冷気に弱いのよ。冷たい視線で見下されると興奮しちゃうマゾっぽいタイプなのよ、私って。徳川の将軍達にもいいように使われて捨てられたしねえ。
そもそも、いったい敵って何者かしらね?
京王線を高架にしてもほとんど世田谷区だし。もう玉川上水の水も流れていないし。マゾっぽいから、放射5号も首都高4号も受け入れたけど、それも昔話よねえ。
え?
そうやって受け入れるばかりでは敵もできるって?
受け入れるのが嫌な人だっているだろうって?
人間心理って難しいのね!
(遠野秋彦・作 ©2009 TOHNO, Akihiko)