宇宙戦艦ヤマトには過剰な死が含まれています。そもそも、TV第1シリーズからして、ヤマトの主要メンバーほぼ全員が地球に戻っただけで、ガミラスもイスカンダルも死体の山です。しかし、そもそもヤマトも死から蘇ったフネです。元も企画に至っては更に死者は増えます。生きているキャラもどんどん死にます。スターシアは「死んでいた」という異説フィルムをわざわざ後から作り、生きていても新たなる旅立ちで死にします。古代守もサーシア(2代目)も死にます。沖田は生き返らせてまで最後死にます。
従って、以下のように言えます。
- 宇宙戦艦ヤマトとは、死に方を模索する映画である
- 救われる地球も倒される敵も、死を彩る死者へのたむけとして存在する
- 従って死ぬことは前提であり、死に方だけが問題にされる
……ではない §
以上のように単純に要約できれば、それで終わりですが。
実はこのような解釈だけでは割り切れません。なぜなら、もしこのような解釈を是とするなら、以下の説明がつきません。
- なぜ死者が蘇るのか
- なぜヤマトはイスカンダルから生還するのか
- なぜ古代進はイスカンダルから生還するのか
生と死の中間領域にて §
このことは、以下の2つの前提を入れることで解釈可能になります。
- ヤマトの物語の本質は死者が生者の支援を得て蘇って無念を晴らすことである
- 地球は生者の星であり、ガミラス・イスカンダルは死者の星(黄泉の国)であり、中間の宇宙は生と死の中間領域である
つまり、より具体的に言えば以下のようになります。
- 生と死の中間領域において、死者は蘇り、無念をやり直すことができる
- そのようにして蘇った死者は、最終的に納得のいく死をやり直さねばならない
- 死者と交わった生者は、「甘美なる死の世界」という誘惑に晒される
- 生者は、死者の無念を手助けすると同時に、誘惑を受け入れて自らも死ぬか、あるいは誘惑をはね除けるかを選択しなければならない
- 生と死の中間領域を航行して死の世界に至るには、本質的に死者の属性を持つヤマトに乗る必要がある
- 従って、全てのヤマトの物語は本質的に「終わり」の物語である。「終わりのための始まり」の物語はあり得ても、常にヤマトの最期が予定されている。ヤマトも死者の属性を持ち、役目を終えれば死者の国に還るのである。しかし、無念を持った死者と手助けする生者がいる限り、何度でも蘇る
イスカンダルが解釈できる §
イスカンダルとガミラスは黄泉の国です。
黄泉の国の女王が生きているか死んでいるかは簡単にフィルムの差し替えができるぐらい、物語の本質とは関係のない話です。つまり、もともと本質的にスターシアも死んでいます。古代守も冥王星で本質的に死んでいます。従って、両者の娘も最初から死者として誕生します。この3人は最終的に死にますが、それは「最初から死んでいたから」です。彼らは、死のやり直しを行わねばなりません。
また、死者である以上年齢も意味を持ちません。1年で大人になってもおかしくないわけです。イスカンダル人は成長が早いのではなく、イスカンダルは死者の国であり、死者に年齢はありません。死者は常に理想年齢として出現します。親がいれば赤ん坊が理想像でしょうが、親から切り離された瞬間に、「おじさまを誘惑するティーンエイジャー」として古代進からは見えます。
ガミラスも解釈できる §
従って、ヤマトがガミラスで行った行為の本質は、「既に死んでいた者達を墓場に戻した」という点にあります。
また、死=deathを連想させる名前を持つデスラーが敵であることも必然です。
しかし、デスラーは無念を晴らすために復活します。支援する生者はズォーダーです。
「さらば」ではヤマトと戦えただけで満足して死者に戻りますが、「2」では「我が帝国の復活」というもう1つの野望を持って生き延びます。
実は沖田も §
実は沖田も実質的に冥王星で死んでいるが、無念さで生き返ったヤマトに生き返って乗り組み、ヤマトの航海を導いたとも言えます。従って、無念を晴らして地球を見た時点で、沖田は死に直さなければなりません。
しかし、ヤマト艦長として艦長席で死ねなかった無念が再度の復活を促し、アクエリアスで再度死ぬわけです。
完結編は §
従って、完結編の最後に生き残った者達が走る海岸線は、生死の境界線です。海にあって沖田は死に、陸上にあって若者は生者として残ります。ここは救命艇から敬礼する場面であってはなりません。境界線がはっきり見える描写である必要があったわけです。従って、完結編の最後は「意味不明」の映像の羅列となりますが、それは間接表現がもたらす必然です。
実は古代進も §
古代進は生者の代表としてヤマトに乗り組みますが、完結編でハイパー放射ミサイルを最初に受けたときに実質的に死んでいるとも言えます。しかし、彼は未練たらしく死を受け入れられません。従って、彼は復活編において宇宙にいなければなりません。この宇宙は生と死の中間領域だからです。
更に言えば、娘の存在は、彼が本質的に死者であって良いことを示します。子孫を残すことが生者の義務であれば、彼はその義務を既に果たしています。
実は森雪も §
森雪はTV第1シリーズの最終回で一度死にます。その後、黄泉の国からさしたる根拠もなく帰還します。生と死が曖昧なヤマト宇宙でこそあり得る事態です。
ついでに復活編の「生死不明」状態も、いかにも生と死の狭間らしい状態です。
復活編も §
復活編で倒した後で直接語りかけてくる敵は、死への誘惑そのものであるとも言えます。であるから、大パネルに肉体が投影されることなく、精神に直接語りかけてくるのです。それは本質的に人間ではなく、死の恐怖と誘惑が具現化したものだからです。
更に言えば、試写において2つのエピローグ(地球の生死)から、見た者達が選択したという逸話は極めて象徴的です。「さらば」的な「死の世界」にも、「2」的な「生の世界」にも行くことができ、選択の余地があったことを示します。
だから §
科学的な正確さは意味を持ちません。この宇宙は科学によって描かれたリアルな宇宙ではなく、生と死の中間領域が「宇宙」というビジュアルをファッションとしてまとって現出しているだけだからです。しかし、そのファッション性のために、科学的な用語を使い、理屈を付けねばなりません。
ヤマトは §
黄泉の国と現世を往復するフネです。自らも、「沈んだフネ」と「現役のフネ」の間を往復すると共に、航海でも黄泉の国と現世を往復します。
同時にヤマトは無念を晴らすために復活したと言えます。戦艦大和の無念は明らかに時代遅れの思想で建造された最強戦艦であり、航空機に沈められて日本を救えませんでした。翼を持って空を飛ぶヤマトは、その無念を晴らすための姿であるとも言えます。
もっとも最強であるかは人によって異論のあるところですが。戦記ブーム時代の日本人の心情としては文句なく世界最大で最強だったのでしょう。
(しかも、ヤマト世界でもアンドロメダ級の方がスペックが上らしいし)
空間騎兵隊も §
ザバイバルの戦車隊を相手に、多弾頭砲が到着したのに「全員、コスモ爆弾用意!」と生身のまま突っ込んでいく空間騎兵隊も、やはり「死の誘惑に負けた者達」と言えるのかも。いくら時間稼ぎとは言え。
(その前に、資料なしでいきなり台詞を思い出したからって項目を書き足すのってどうよ! ってか、そんな台詞まで覚えている点が突っ込みどころでしょ!)
「さらば」の最後も §
「さらば」の最後は第1艦橋で生者と死者が交わります。死んだはずの森雪は微笑み、オレンジの人々が古代の死者の国への仲間入りを歓迎します。これは、「死」という甘美なるものへの誘惑に負けたとも言えるし、既に負けた者達が「酒は美味いし」(佐渡先生が言いそうだ)、「ねえちゃんは綺麗だぞ」(森雪が待っている黄泉の国だしテレサも一緒に行くぞ)と誘っているとも言えます。
従って §
つまり、端的に一言で要約すればヤマトは「帰って来たヨッパライ」である、と言えます。
って、そういう結末でいいのか!?
余談 §
従って、宇宙を即物的な宇宙としてしか解釈できなかった冨野由悠季は即物的な宇宙としてガンダムの宇宙を描くが、おそらくその過程で何かを掴んで死んでいるキャラも生きているように描けるようになってイデオン劇場版に至るのでしょう。
また、このような認識は全てアニメーションに合いません。すべてを、象徴する別の何か経由してしか表現できないからです。生き生きとした躍動する肉体を描くのがアニメーションだとすれば死者は描けません。従って、ヤマトは旧来のアニメーションとは似て非なるアニメを確立するしかありません。旧来のアニメーションを担ってきた人たちから評判が悪いのは当たり前です。