映像的な凄みは素晴らしい「永遠に」ですが、個人的な不満は以下の点に集約されます。(いやまあ、もっとアルフォンは魅力的に雪を誘惑して欲しかったとか、無人艦隊の負け方があっさりしすぎているとか、いろいろあるけど)
- 古代守の死に方があっけなさ過ぎる
- 死ぬ必要のないサーシャが死んでいる
- サーシャがいきなり成長しているのは唐突すぎる
これは「宇宙戦艦ヤマトは生と死の狭間の物語であるか?」を前提にすると、以下のように説明がつきます。
- サーシャと古代守は本質的に死者であり、死に直すために存在している。つまり、死は結果ではなく前提である
- 古代守の無念は地球を守れなかった自分にあり、地球のために地球で命を差し出せば本望である。思い残すことはない
- 死者は、見る者が最も望む姿で出てくる。従って、血気盛んな宇宙戦士達の望みは赤ん坊ではなく、お年頃の女性である (古代守パパの望む姿であれば赤ん坊のままかもしれないが、真田に預けられている)
- イスカンダル人の成長が早いというのは物語の解釈であって、物語が持つ構造ではない。従って、解釈のレイヤーではイスカンダル人の成長が早いと言っても構わない
- ここが最も重要なポイントだが、母がイスカンダルで、父が地球で死んだことで、サーシャは死に場所の選び方を知るが、そもそも混血のサーシャはどちらも選べない(生まれたイスカンダルはもうない)。従って、宇宙の彼方のどちらでもない場所を死に場所として選ぶ必要があった
つまりですね。古代守とスターシャがイスカンダルの新しいアダムとイブになるという言葉に引きずられて、子孫を繁栄させるべきだと思っていましたが、実はこの台詞からして間違っているわけです。古代守とスターシャは、アダムとイブに最初からなれないことが宿命づけられているわけです。
いや正確には、死者がアダムとイブを模倣しようとして娘ができたことは事実でしょう。しかし、生きている肉体こそ素晴らしいとするこの映画の中で、死者はあるべき場所に還るしかありません。
そして生者は自分たちの運命を切り開いて、考える人の向きに悩みなら生者の星である地球に帰還するのであった。
(とすればまさに生者の代表が徳川太助であり、復活編で立派になって出てくるのも当然)
そこで気づく §
ワープディメンジョン方式こそが生死の世界の境界です。あれを超えた先は死者の世界です。生きている肉体を欲する亡者の世界です。そして、この物語の本質は生者と死者の峻別にあります。最終的に、生者が生き残り、生者のふりをする死者は死にます。この物語の中で暗黒星団帝国の人たちが「生きている肉体を持たない死者」であることは明らかであり、死を迎えます。しかし、その構造の中ではもはやイスカンダル幻想も賞味期限となり、古代守とサーシャでさえ死すべき存在であることを暴露してしまいます。
更に余談 §
ヤマトをイカロスに隠すという行為も一種の「ヤマトの死」の暗喩かもしれません。
とすれば、ヤマトの必要性は生者が死の国と往復するために「死者であったヤマトを引き出してくる」点にあったといえます。死者の国と往復できることが、ヤマトの最大の特性です。
感想 §
うーん、サーダは結構好きだったけど、山本ぐらいミーハーに語れるぐらいネタがない……。(実はサーシャよりサーダ派)