はたと気づきました。
松本氏の作品であるガンフロンティアに愛猫に死なれた男がでてきます。
墓に書かれた日付は1974.11.10.12時です。
西暦1974年11月10日、12時ということでしょう。
おそらくこれは事実なのでしょう。(違うならば西部開拓時代の作品に1974と書くわけがない。外伝ではしっかり1873と19世紀の年号を書いている)
ということは、TV第1シリーズ第6話「氷原に眠る宇宙駆逐艦ゆきかぜ!」の本放送の放送日となります。つまり、12/08放送の第10話「さらば太陽圏!!銀河より愛をこめて!!」で「ミーくん、さよなら」と言わせる時間的な余地はあったことになります。
ということは、以下のような理解は誤りであるかもしれません。
- 生をつかさどる松本氏と死なせて金をむしり取ろうとする西崎氏の対立
むしろ、死という問題にリアルに直面していたのは松本氏の方であり、既に死んでいる愛猫をモデルにした猫を作中に出してしまうほどであるわけです。(しかも、ミーくんは他の作品にも出ている他、ミーくん自身を主役にした作品まである)
従って、もともとみんな死ぬ話であったヤマトの物語を改変して「死なない話」に作り替える際、「死なないのは味方だけ」という形で落ち着き、敵はひたすら死んでいきます。冥王星の生き残りもバラン星基地の全員も死に、ドメルとゲールは自爆、ガミラス本星は死に絶えています。ここに「改心」という設定はありません。未来少年コナンで敵であったモンスリーが改心して味方になるような展開はありません。負けを悟って立ち去るということすらありません。「味方には生を、敵には死を」という熾烈な区別がそこには見えます。
実は、松本さん自身が死を意識するあまりその対局としての生も強く意識せざるを得なかった、といったあたりが妥当な解釈であり、「生きるべきである」と思わなかった敵には容赦のない死を与えたとも考えられます。「生きるべき」という意識も、ある種の「欲」の表れなのかも。
やはりヤマトは死の作品なのかも?
とはいえ §
カリオストロの城では、伯爵がぷちっとなり、未来少年コナンでもレプカは落下していきます。そういう意味で、悪党の死はヤマトに限らずどこにでもあったというのも事実かも。宮崎アニメでも死はやっとナウシカで止まり、負けたクシャナは生きたまま帰って行きますが、ラピュタになるとやはりムスカは落下します。
ということは、やはり「死なないこと」よりも「死に方が問題にされる」ことはヤマトに限らず普通であったのかも。問題は、「誰を死なせるか」「どう死なせるか」に集約されます。
とすれば、問題は死なせるキャラと死なせないキャラの分け方にあったのであったにも関わらず、実際は「死なせることへの抗議」が主であるかのような錯覚もあったのかも。
余談 §
「私たちには、もう神様の姿が見えない!」
「え? 前は見えていたとでも?」
「……」