ヤマトは「死」作品であり、そこで問題にされたのは「死」を描くべきか否かではなく、死すべき者と死すべきではない者の線引きであるとすると。
実は以下の点で境界線の引き直しが行われています。
- ほとんど死ぬ当初案からガミラス人と沖田しか死なないTV放映案へ
- デスラーを生者の側に引き戻してあらためて殺し、ほとんど死ぬ「さらば」
- デスラーが生きて立ち去り、ヤマトの主要乗組員も死なない「2」
- スターシャを死者にする「新たなる旅立ち」
- 島も死に、沖田を生者の側に戻してもう一度殺す「完結編」
ここで注目したいのは、「新たなる旅立ち」の持つ効能です。
デスラーの生と、スターシャの死は、TV第1シリーズで厳格に引いた生死識別ラインの明確な再定義です。
そこから逆算して考えると、実は「2」でもやはりデスラーは死すべき存在であるのに、どさくさに紛れて生き延びてしまったとも考えられます。
一方で、新キャラが死ぬIIIや、沖田を生者の側に戻してもう一度殺す「完結編」は、生死ラインの再定義にはなりません。せいぜい、「島の死」が問題になる程度です。
そこで、みんな死ぬ「さらば」は初期案に忠実な生死ラインであり、転機ではないとすれば、以下の2つが決定的な転機と思われます。
- 大多数を殺さないTV第1シリーズ放映案へ
- 「2」から始まり「新たなる旅立ち」で決定的になるデスラーが死なない世界観へ
もしも、上が松本零士的価値観であり、下が西崎義信的世界観であるとすれば、ここで決定的に世界観が引き裂かれます。この「ぶれ」が印象の曖昧化を招いた可能性もあります。「2」「永遠に」「完結編」はこの「ぶれ」の度合いが大きいために印象が曖昧であり、逆にデスラーの出番が多い「新たなる旅立ち」と「III」はぶれが少なく、印象が割と明快であるとも考えられます。(あくまで個人的な印象ですが)
とすれば、復活編が割といい感じで上手くまとまっているのは、少なくとも価値観が一本化されているからでしょう。デスラーは登場しませんが、「新たなる旅立ち」や「III」が好きな人には割と良い印象だったのではないでしょうか?
ならば §
船頭が多いとフネは山に登るので、むしろ分かれて良かったのかも。
「我が大ヤマトは不滅だ。この西崎もな」ぐらいはデスラー並に堂々と言っても良かったのかも。