昔見た映画に何があったかと思い出しているとき、新訳Zガ○ダムを3本とも劇場で見ていることを思い出しました。(もちろん、ガンダム3部作もイデオンもザブングルも劇場で見ているのだが)
しかし、最後がTVシリーズと違います。これではZZガ○ダムにつながりません。
これでは、オフィシャルの設定の解釈はどうなるのか……と思ったとき、はたと気付きました。
「これって、ヤマトがさらばから2で結末を変えて。後の作品に繋がらなくなった事例と同じではないか」
繋がる作品と繋がらない作品の作成順番は違いますが、それを度外視すれば。
つまり、どれほど偉そうに語ったところで、既にガ○ダムもヤマトの縮小再生産に過ぎないわけですね。
デギ○ 「貴公、知っておるか? ヤマトを」
ギレ○ 「ヤマト? 中世期の空想上の宇宙船ですな」
デギ○ 「ああ。宇宙戦艦でな、一大ブームを巻き起こしながら世間から叩かれまくった宇宙戦艦だ。ガ○ダムはそのヤマトの尻尾だな」
ギレ○ 「日本が世界に誇るガ○ダムが?」
(中略)
デギ○ 「…ヤマトは特攻したのだぞ」
シド・ミードにデザインを依頼して絶句して、はるか未来という設定の別の話を作るのもヤマトが先だしね。
やはり、ヤマトこそ延々と続く空飛ぶ船の文化の末裔であり、海洋冒険の末裔であり、アニメという分野の開祖になってしまった関係上「新しい」かのように見えるものの、実際は極めて長い伝統の末裔であり、ガ○ダムはその末裔にぶら下がった尻尾に過ぎないと言うべきなのかも。
「ヤマトの失敗」を見ているから、同じような状況で失敗せずに切り抜けられたとも言えます。ほぼ完全に設定を一新した2520の失敗を見て∀は古い設定を持ち出してボルジャーノンという名のザクを出して命を取り留めたのかも。ブルーノアを「古い世界と新しい世界のつなぎ」として出すのは遅すぎたけれど、ボルジャーノンは機能したわけです。
(いや、馬鹿にしているように見えるかもしれないけど、けっこう∀は好きだった。ザクはどうでもいいけど、古いアメリカ風の世界観やザックトレーガーは凄かったぞ。∀の音楽CDもけっこう買ったしね)
そういえば §
2520も、MGと1/144の∀もプラモを買ったっけ。ただ、出来が良いと評判だったMGもいざ組んでみると不満が残るし。ディティールでは圧勝している筈なのに、全体のラインは2520のプラモの方が大人っぽかったかな。それは、そもそも部品数が多いモデルは良いモデルなのか、という根源的な問題にもつながるのかも。実際、艦船模型でも部品数が少ない青島のウォーターラインモデルが作って楽しかったりするしね。