「というわけで、君は『萌えアニメはすたれたんじゃない。劇場にシフトしたんだ』いう文章を書いたわけだけどさ」
「うん」
「今どうしてそういう文章なのかな?」
「もっともな質問だ」
「萌えが気になるの?」
「いや、あまり気にならない。というか、うざいからあっち行ってくれ、という感じだ」
「ならなぜ萌えを話題にするの?」
「立ち位置が似ているので混同されやすい傾向があるから、というのが1つの理由なのだが、実は最近、離れつつあるという印象を受けるようになった」
「えっ?」
「だからさ。萌えが嫌でも目に入るケースがこれまでは多かったが、最近は目に入りにくくなった」
「どういう意味?」
「意味はこっちが聞きたいよ」
「いや、現象としてどういうことが起こっているの?」
「たとえばさ。テレビを見るだろう?」
「うん」
「そこで、アニメを見るわけだ」
「よく見るね」
「ただ、その意図はあくまで大人から見た子供番組の定点観測であって、子供にとって良いアニメが放送されていたら嬉しいが、自分に向けたアニメを見ている訳ではない」
「ほほう」
「その際、萌えアニメは、こちらの興味の対象外だから全く見ていない」
「見ないのか」
「うん。今では、萌えアニメだと分かった瞬間に切り捨てるぐらい圧倒的に見ていない」
「それは意外だね」
「昔は、アニメは全部見るまで答えは出ないとかいって、萌えアニメも少なくとも地上波VHFで放送されるものの第1話は見ていたが、あほらしくなってやめた。あまりにもヒット率が低すぎる」
「それで?」
「でも、萌えアニメとそうではないアニメの境界線はあまり明瞭ではない。やはり見てみないと良く分からない」
「分からないの?」
「うん、番組表を見たぐらいでは明瞭な区別はできない。全ての萌えアニメが意味不明ひらがな4文字というわけではないしね。しっかりしたまともな作品を萌えアニメのスタッフが原作にしているケースもあるし。これも実質的に萌えアニメに準じる」
「それで?」
「だからさ。嫌でも萌えアニメは目に入っていたんだよ。去年ぐらいまでかな」
「うん」
「でもさ、去年の途中からかな。そういう形で目に入る萌えアニメが激減しているんだ」
「なるほど。それで萌えが去ったと」
「いやいや。まだ話は半分だ」
「というと?」
「萌えアニメは、泥棒天国のテレビを捨てて劇場にシフトしたと聞いた。そして、去年の12月から今年の1月に掛けて7本も映画を見た私も、そのまま劇場にこそ人生があると踏んで劇場にシフトした」
「うん。とすれば、テレビで萌えを見なくなった代わりに劇場で見かけるようになった、ということだね」
「違うんだ」
「というと?」
「劇場で萌えアニメの存在感を全く見ないんだよ」
「えっ? それは君が萌えアニメを見ないからじゃないのかい?」
「いや。本編の話はしてない。予告編やポスターの話なんだ。たとえば、毎回のようにポケモン映画の宣伝を見ているのに、萌えアニメの宣伝は見たことが無いんだよ」
「それはどういうこと?」
「つまりだな。私は自分のやりたいことをやりたいようにしているだけで、別に萌えとの距離感など考えてもいない。だが、劇場シフトという現象を経由したとき、今までうざいぐらいにまとわりついてきた萌えが、急に遠くなった感じがするのだ」
「それが悲しいわけ?」
「いいや、うざかったから嬉しい」
「っておい。でも気になる?」
「うざいものが急に遠くなれば気になるさ」
「じゃあ、引き戻したいわけではないのだね?」
「当然だ。遠くなれば間違われることも減って面倒も減るだろう。それはそれでいい。ただ、劇場は一例に過ぎないけど、他にもいろいろ遠くなったと実感するケースがある。その理由だけは確認しておきたいと思う」
「慎重だね」
「それはそうだ。またまとわりついてきたら嫌だからね」
オマケ §
「で、遠くなった理由はそもそも何なんだろう?」
「劇場の萌えアニメが遠い問題は一応既に分析しているが、本質的には無時間性の病理が原因にあると思う」
「というと?」
「つまりさ。こちらのスタンスは基本的に現在進行形なんだよ。過去の名作より、現在進行形の凡作さ。物事や現象も、やはり今どうなっているのかが起点になる。それを追い続けることに意味があると思っている」
「そうか。評価の定まった優れたものをコレクションするよりも、新しい驚きを発見することに、価値を見出しているわけだね」
「うん。しかし、このような方法論は、無時間的な病理を抱えた者と、からきし相性が悪い」
「というと?」
「過去の定説ではこうだけど、今はもう違うということを、現在進行形の最先端として見てきたよ、という話をするとしよう」
「うん」
「すると、無時間的な人間は困ったことになる」
「というと?」
「彼らには過去も現在も無いから定説は定説だ。それが違うという話は受容するための受け皿がない」
「無いのか!」
「うん。綺麗さっぱり無い」
「でも、新しい萌えアニメの新番組は受容できるんだろう?」
「そうだ。新しいアニメの新番組は受容できるが、それは過去に延々と繰り返されてきた既に決まり切った定説だから、受容できるに過ぎない」
「そうか。個別のアニメは受容できても、世界観の枠組みは変えられないのだ」
「そうだ。だから、新発見の生物は受容できても、全ての生物は神が作ったという世界観の変更は受容できない。たとえ話だけどね」
「そうか、そこで宗教論争になっちゃう」
「いや、論争になればまだ良い方で、そもそも受容できない可能性すらある」
「そうか。認識の枠組みを超えてしまうと、受容すらできないわけだね」
「うん。そういうことだ」
「でも、どうしてそうなってしまうの?」
「あくまで仮説だが……」
「これまでのも全部仮説だけどね」
「うん。私の言うことは全て仮説だ」
「ともかく語ってくれよ」
「日本では成熟年齢が上がってきている。その結果、子供が持つ万能感を放棄する『精神的な去勢』が誰も体験する通過儀礼として存在するが、それが遅れてきている。しかし、年齢が上がると頭が堅くなって認識の枠組みそのものが変わりにくくなる。その結果として、『精神的な去勢』を若い頃に体験できないと、どんどん体験しにくくなるという状況が起こる」
「それで?」
「その結果として子供が持つ万能感が放棄されないが、この万能感が持つ特徴の1つが無時間性だ」
「というと?」
「つまり、子供は大人になったら運転手とか、大人になったらパイロットという夢をいくらでも語れるが、実際に努力してそれになる手順が含まれていない。あくまでも遠い未来を思い描くだけの話だ。つまり、永遠に大人にならない世界観だからこそ言えることなんだ」
「それが無時間性ということなんだね」
「そして、実は大人になったという錯覚によって、この状況は更に悪化する」
「肉体は時間が経てば大人になるだろう?」
「うん、でも精神の成長が伴うとは限らない」
「でも、あまり子供っぽいことを言えば叩かれるんじゃないの?」
「だからさ。ネットという閉鎖空間で徒党を組んで匿名で語るんだよ」
「そうか。匿名なら個人を叩けないし、しかも徒党を組んで多数派を偽装すれば叩かれにくくなるわけだ。しかも、ネット上なら相手が怒ってもその場で殴られる心配はない」
「うん」
「あれ。ということはさ。映画館という開かれた空間に1人で行って、実名でユーザー登録して割引で映画を見るって行為は正反対じゃない?」
「結果としてはそうなる。別に意図したわけではないけどね」
「凄く相性が悪そうだね」
「とても悪いさ。まるで世界観に接点が無いぐらい相性が悪いのだろうね」
「そうか。だから萌えの存在感が映画館であまり感じられないわけだね」
「そうかもしれない。ネットでこれほど盛り上がっている萌えアニメの映画が、映画館に行くとぜんぜん存在感がなくて、代わりにアリス・イン・ワンダーランドあたりのグッズがずらりと並んでいるわけだ」
「それって君の願望じゃない? そういう劇場が理想ってだけじゃない?」
「いいや。そういう光景を見てしまったので、そこから逆算して理屈を考えてみただけの話だ。アリス・イン・ワンダーランドあたりのグッズがずらりと並んでいる劇場をいくつも見たが、萌えグッズが置いてある劇場を見たことがない、というのは前提でしかない。そこはあくまで見た通りだ。何の個人的な解釈も入っていない。見ていない劇場に何があるのかまでは知らないけどね」
「そういう劇場を選んだのではないの?」
「いや。中身では選んでない。劇場選定の理由はほとんど場所と時間しか考慮していないからだ。あとは、目的の映画をやっているか否かだけ。萌え映画もやってる劇場は避けるとか、そういう配慮は1つも無い」