「次回予告してしまったので、この話題行くぞ」
「なんだっけ?」
「旧ルパンとヤマトは似ているかもしれない」
「宇宙冒険と泥棒が似ているの?」
「ヤマトだって野菜泥棒だしな」
「ええ!?
「って、そうじゃなくて。以下のような状況が似ているという話」
「ああ、そうか。ぜんぜん人気がなかったのに、再放送が繰り返されるうちにぐぐっと上向いて大ブームという構造は似ているのか」
「序盤に迷走して路線が固まるまで時間を要したことも似ている」
「つまりどういうことだろう?」
「この問題が示唆しているのは、要するに常識を壊すことのハードルの高さだろうと思う」
「受け手の意識が改革されないと受け入れられないからね」
「それに、作り手側の意思統一や、本人の意向がぶれなくなるという意味でも時間が必要なのかもしれない」
おいらの場合 §
「ヤマトは本放送で全部見た。モノクロテレビだけどね」
「うん」
「でも、ルパンは再放送だった。それもすぐじゃなかった」
「なぜ?」
「理由はおそらく大隅ルパンをちらっと見て、子供としてあまり面白くなく怖いと思ったからだろう。ちらっと見てそれっきりだった」
「では、なぜ見るようになったの?」
「E君から面白いから見てみろと言われて見ると面白かったからだ。そのときに見たのはおそらく宮崎ルパンだ。子供が見ても凄く面白かった」
「そうか」
「そのあとの再放送で大隅ルパンの良さも分かってきたよ。自分が成長したってこともあるとおもうけど」
「そうか」
「で、7番目の橋が落ちるとき、だ。カリ城の原型的な話はいくつかあるのだが、これがいちばん強烈だろう」
「というと?」
「女性を助けるのに報酬も理由も要らないという話なのだが、カリ城は過去に出会った相手で助ける理由がわざわざ用意してあるけど、実は7番目の橋が落ちるとき、には無い。全くの見ず知らずの女性を人質に取られてルパンは敵に従ってしまうのだ。これがある意味で、原型的なアニメ版ルパンのダンディズムなんだろう」
「それは分かりにくいね」
「でもさ。ヤマトでもあるんだよ。見ず知らずの女性が人質にされても関係ないと思うのと同じように、いくらテレサが困っていても地球には関係ないわけだ。だから、別にテレサを助けに行く必要なんて無いんだ。でも、わざわざ裏切り者の名を受けて反乱者として助けに行くわけだ」
「構造的には似ているね」
「どちらも悪者扱いされて、それでも助けるわけだ」
「そう考えると似ているね」
「だからさ。宮崎ヤマトは現実の可能性としてゼロではない程度のリアリティはあったと言えるわけだ」
「ほとんどゼロだと思うけどね」
「しかし、逆から見ると時代の断面を見る1つの切り口が旧ルパンであり、別の切り口がヤマトであったのかもしれない。ヤマトのテレビ第1作は1974~5年だねど、旧ルパンは1971~1972年で年代も近いしね」
「旧ルパンの方が少し早いね」
「だからさ。実は宮崎駿的には、もうヤマトはルパンでやってしまったことの繰り返しだからイマイチ気乗りしないのかもしれない」
「なるほど」
「でも、松本零士的には、夢にまで見たアニメを作れるチャンスだ。熱意も持っていただろう」
「そうそう。いきなり宇宙零戦に52型って書き足しちゃうぐらい熱意が乗ってる」
「試作機なのにいきなり52型……」
「シナリオでは宇宙零戦としか書いてないものね」
「でもさ。結局、アイテム1つ1つに型番を設定していく旧ルパン的な手法と同じじゃない」
「そうか。ドラマ的には52型っていう必要ないものね」
「うん。別に宇宙12試艦戦とか21型とか32型とか宇宙二式水戦とか出てくる訳じゃないし」
「21型は復活編でやっと出てくるぐらいだし」
「やはり似てるね」
「いや本当に52型って松本先生が書き足したのかは知らないからね。信じるなよ」
オマケ §
「ちなみにコスモゼロ21は、どう読むんだろう」
「意味的には宇宙零戦21型なんだろうけどね」
「そう思えば、にじゅういち、と読めばいいような気がする」
「うん」
「でも、トゥエンティワンという英語読みかもしれない」
「ええっ?」
「コスモゼロ21と型を付けない表記で見かけるから」
「なるほど」
「個人的には、ウルトラセブン21にあやかって、コスモゼロツーワンと呼ぶのもいいと思っている」
「え? ウルトラセブン21って、ツーワンて読むの?」
「少なくともウルトラ主題歌集に入っていた主題歌ではツーワンと呼んでいる」
「実現されなかった幻の作品なのに、主題歌はあるんだ」