「ヤマト復活編後の世界について、語ろうか」
「アマールの衛星から地球人が地球に戻る話?」
「いやいや。現実世界の話だよ」
「というと?」
「そうだな。世界がよりクリアに見えるようになった、ということかな」
「何が見えるんだい?」
たとえばAは §
「たとえばさ。1990年代にAという小説があったわけだ。けっこう人気があった。どちらかといえば、女性向けのブランドの文庫でね。ジュブナイルの一種なのかな。何冊も出ていた」
「Aで始まる人気小説シリーズね、何だろう」
「ああ、念のために言うが、Aは仮名であって、頭文字ではないよ」
「また分かりにくい話を。それじゃ分からないじゃないか」
「分からなくていいんだよ。商売の邪魔だと言われないためのちょっとした大人の気配りだ」
「でも、具体的にイメージしにくいな」
「それでいいんだよ。おそらく普遍性のある話題だ。自分でこれだという小説を当てはめればいい」
「それで?」
「簡単に言えば、前半はまあまあ読めたがどれも後半は甘すぎてダメダメ」
「それは出来が悪いということ?」
「厳密に言うとちょっと違う」
「ダメダメなのに出来が悪いわけではないと?」
「あのね。この小説の後半は出来が悪いのではなくて、実は読者層がその水準までしか受容できないってことなんだよ」
「えっ?」
「ヤマト復活編以降の今ならはっきり見える」
「というと?」
「だからさ。かなり人気が高くてアニメにもなってる小説なんだよ。アニメは見てなかったけど」
「そうか。人気があるってことは、単純に出来が悪いと言い切るようなものではないわけだね」
「うん。そうじゃなくて、おそらく現状で普遍的に見られるオタク向けマーケティングの祖型と見るべきものなんだろう」
「でも、客に合わせるのは当然のことだろう?」
「いいや。そうじゃない」
心の栄養という問題 §
「よし、この対極としてもう1つ例を出そう」
「ヤマトだね」
「いや。あえてヤマトは避けてシュガシュガルーンにしておこう」
「ええっ? 少女漫画だろう?」
「アニメの方を見てたけどね。コミックも少し読んだぞ」
「それで何が対極なんだい?」
「もううろ覚えだけどさ。シュガシュガルーンってのは、子供には心の栄養になるようなものを見せないとダメだと原作者が言っていた作品だ」
「心の栄養?」
「だからさ。子供が欲しがるものを与えるだけじゃダメなんだよ。子供の健全な成長に必要なものをたべさせないとダメ。そういう心の側面に自覚的だったのが原作者の安野モヨコ先生ってことだろう。たぶんね」
「そうか。客に合わせるというのは、子供向け作品としては良くない作り方なんだね」
「そうさ。子供の背丈に合わせて語ることは重要だが、それは子供に望むものを与えろという意味ではない。子供は小さな大人ではないんだ。欲しがるからといってお菓子だけ子供に与えて健全な身体ができるものか」
「でも、あまりそういう意見は聞かないぞ」
「それはそうだ。この場合の受け手は、大人として振る舞いたい子供だからだ。子供であるという状況は常に否認される。実際は子供でも否認される。身体が既に大人であるという理由でいかに心が子供のままでも子供であることが否認される」
「それで?」
「つまりさ。Aという作品がそこで人気を博した時点で、既に道は決定的に決裂していたのだ」
「どういうこと?」
「こちらは、子供はそのうちに大人になるだろうと思っていたが、これは間違っていた」
「なぜ間違いなの?」
「『いい加減早く大人になれよ』というメッセージは、相手が持つ既に大人であるという認識により、相手に届くことはない」
「まあ言ってもだめだろね」
「うん。だから言わないでさ。言葉に込めてもメッセージはどうせ届かないからな。態度で示したよ。だから、こちらは大人ぶりたい子供を子供扱いするいやな大人になろうとしたぜ」
「嫌われそうだ」
「うん。子供に嫌われるのも大人の役目だと思って、しょうがないから引き受けたよ。おいらは、相当にイヤな奴に見えたはずだ」
「それはご苦労様」
「それを言うのは早いよ」
「というと?」
「勘違いした賢いつもり、大人のつもり、対等のつもりの子供に対して、イヤな大人を演じるという作業は現在進行形で継続中だ」
「でも、それって子供を大人だとおだてて金をむしり取る行為よりは、凄く良心的じゃないの?」
「嫌われて、いいことないけどな」
「で嫌われて通じるの?」
「そうでもない。通じないことも多いよ」
「なぜ?」
「だからさ。もう既に言ったことだけど、僕は大人だと思い込んだ子供に、大人になれというメッセージはとどかない」
「そうか。そもそも自分に向けたメッセージであることが理解できないわけだね」
「ちなみに笑い話がある」
「なんだい?」
「Aが流行っていた集団というのは、Bというアニメ作家のファンを自称している集団だが、Bの代表作のCやDの主役だったEという声優が大人気だった。で、このEという声優はシュガシュガルーンに出ていたが誰もシュガシュガルーンを見ていなかった」
「なるほど。それはねじれているね」
「だからさ。子供なのに大人であるという虚偽を押し通そうとすると、どこかで破綻して綻びが出てしまうのだ」
「そこで、虚偽は押し通せないと気づくのかい?」
「いいや。気づかない。そもそも虚偽を押し通しているという自覚がないからだ」
「じゃあどうなるの?」
「黙り込むだけさ」
「なぜ?」
「だって虚偽を認めて謝ったらプライド崩壊だし、子供の屁理屈で反論できない程度にやりこめてあれば、もう黙るしかない。方法論としては、甲羅に首を引っ込めてやり過ごすしかない」
「心中はどうなんだい?」
「さあね。それは知らない」
「で、君はどうするんだい?」
「ほとぼりが冷めたから何もかも昔通りと思って首を出したところをもう1回叩くだけだ」
「いやな役回りだね」
「そうさ。全くの大損の役回りだ。誰がそんな役目をやりたいと思う」
「やりたくないの?」
「ああ、やりたくないよ」
「それにしても、シュガシュガルーンとヤマト以外は意味不明の伏せ字ばかりだね」
「うん。予定ではBまでで終わるつもりだったが、書いているとEまでいってしまった」
「Eで終わり?」
「いやもう1つ。これがBの予定だったFだ」
Fという作品も §
「Fというオタクに人気の作品も人気があるけど、あれは酷かった。原作の小説を1冊だけ読んだことがあるけど、あれはまさに心の栄養にならない中身だろう。ただの甘い菓子だ。しかも、虫歯の痛みで苦しんでいる患者に、更に甘い砂糖の塊を押し込んで痛みを誤魔化すような中身だったな」
「そんな。一時的に甘くても、後でもっと苦しくなるぞ」
「そうさ。だから、そういう作品を書くことも、売ることも、褒めることも、全てまっとうな神経の人間がやることじゃないと思うな」
「それがシュガシュガルーンの対極ということだね」
「ひいてはヤマトの対極だ」
「ヤマトとシュガシュガルーンをそこまで並べていいの? 並べられるの?」
「さあね。でも、少なくとも安野モヨコ先生の監督不行届に出てくるカントクくんはヤマトファンらしいぞ」
「おっと。突然そこでヤマトに関係が出るのか」
「ちなみにFといっても、別にトラクターで暴走するアニメじゃないぞ」
「それはF。って書くと同じか」
「他にGという作品も事例に加えていいかもね」
「ガ○ダム?」
「いやいや。Fの次だからGというだけで、ガ○ダム関係ない」
「それで?」
「明らかに未熟すぎて、本当なら出版できる水準ではないだろう。出来の良い同人誌の水準以下で、とうてい客に読ませられるものではなかった」
「じゃあ、淘汰されたんだろう?」
「いや、面白いと褒める人もいたんだよ。それなりに人気があった」
「ならいいだろう? 別に客がいるなら」
「問題はさ。これが世に出てしまって売れてしまったことで、作者がこれで世の中通るのだと思い込んでしまったら、それは本人にとって不幸だという点にある」
「え? 書いた人がいて、買って読む人がいたらそれでいいのじゃないの?」
「だからさ。それは放射能除去装置はサーシャが持ってくればそれで良かったという話と同じなんだよ」
「ええ?」
「そういう表面的な合理主義で世の中は動いてないからさ。そこを学んだ先に人生ってのはあるんだ」
「そうか、これで世の中通ると思ってしまうと、世界観が安直になってしまうね」
「すると大人向け作品が書けるようにもなれないし、かとって安直な作品はフレッシュな新人に押されてしまう。つまり未来がない」
まとめ §
「じゃあ、最後にまとめようか」
「司会者モードに入ったな」
「結局、ヤマト復活編後の世界とは何だったの?」
「つまりさ。そういう世界がよりよく見えるようになったのだよ、分かるかね、ヤマトの諸君」
「なぜ見えるようになったの?」
「おそらく理由は2つある。1つは、判断の基準になったこと。もう1つは、原点とのラインが引かれたことだ」
「まず最初の理由を説明してくれよ」
「物事を判断するには何か基準が必要だが、あまり古くてはイマイチ頼りにならない。ヤマト復活編はその点で十分に新しかった」
「2つめの理由は?」
「現在と1970年代を結ぶラインが成立して原点を思い出す契機になった」
「もうちょっと分かりやすく頼むよ」
「そうだな。ヤマトはイスカンダルを目指していたが、小マゼラン星雲に迷い込んでいた。しかし、スターシャからの通信で進路がクリアになって、大マゼラン星雲を目指せるようになった。そういうことだろうね」
「もっと分かりにくいよ!」
「だからやはりヤマトは道標なんだよ。みちしるべ」
「そうか、ヤマトを支持するにせよ、反発するにせよ、1つの基準点になるということだね」
「そこがヤマトの立派なところだよ。反発も含めて基準になるから、そこからスタートできるんだ」
「ガ○ダムじゃダメなの?」
「ガ○ダムは起点になれない。なぜなら拡散しすぎて確固たる基準というには曖昧すぎるからだ」
「特定のガ○ダム作品なら明確なのでは?」
「それでは逆に小粒すぎる」
「1年戦争は?」
「1年戦争となると、実は確固たる1年戦争なるものは実は存在していない。いろいろな作品群から曖昧な像ができあがってしまう。つまり、曖昧過ぎなんだ」