「ヤマトを契機にアニメブームというものが起こった、ということにしよう」
「その解釈は多少嘘くさいけどね」
「トリトンの存在が宙に浮いてしまうしね」
「うん」
「でも、ここでの話はそうではない。アニメブームという状況下で頭角を現した才能はいろいろある」
「宮崎駿とか押井守かな」
「それもあるが、もっと幅広く捉えてもいいと思うよ」
「そうするとかなり多いね」
「うん。でもさ。ここである種のハードルを設定すると乗り越えられる人材はがくっと減ってしまう」
「ただのロボットアニメにゃ用はないってことだね」
「他のジャンルでもね」
「手厳しいね」
「そこで、ハードルを超えてきたロボットアニメは多くない。1980年代前半ぐらいで、ロボットがイヤらしくないロボットアニメとおいらが思っていたのは、おそらく3つしかない」
「1つはガ○ダム? もう1つはダイターン3かな?」
「ダイターンはあたりだが、ガ○ダムは外れだ」
「じゃあ、その3つとは何だい?」
「ダイターン3、イデオン、ゴーショーグンだ」
「ゴーショーグンとはマイナーだね」
「しかし、これは見事な作品だよ。地球を守っているのになぜかガキが出てきてうろうろするアニメが多い中、それを逆手に取って、実はガキこそが新しい人類に進化する主役と読み替えた作品なんだ。だから、結末は宇宙に旅立つ少年を見送って終わり」
「へぇ」
「敵が経済的な悪というのもいいね。幹部は作戦に失敗すると損失をいちいち払うんだ」
「それはひと味違うね」
「でもさ。そういう世界経済を背後から支配する悪というのは、ヤマト以後の大人向けのアニメの世界から逆算して成立するものであり、やはり一種のヤマトの子らなんだよ」
「そうか。義理の子供みたいなものだね」
「さてここで問題だ。ダイターン3、イデオンの監督は富野由悠季。これは分かるね?」
「うん」
「ではゴーショーグンの監督は誰だか分かるかい?」
「誰なの?」
「湯山邦彦監督」
「それで?」
「では、湯山邦彦監督は今何をしているか知っているかい?」
「何をしているの?」
「ポケモンのテレビアニメの総監督で、劇場版の各作品の監督だよ」
「ええっ!? そこで話がポケモンにつながっちゃうの?」
「更に質問しよう。おいらが現在進行形で感想を書いているアニメはヤマトと何?」
「ポケモン……。あれ、思わぬところで話がつながったね」
「だからさ。おいらは結局ぶれてないんだよ。湯山監督のゴーショーグンの価値を見出して見てたおいらと、ポケモンの価値を見出して見ているおいらは矛盾無く連続しているんだ。そして、それは必然的にヤマト後の世界の出来事として、1つにまとめられるんだ」
「ヤマト後?」
「だからさ。ヤマトを見てしまったら、もうありきたりのアニメでは満足できないわけだよ。だからその先の物語は必要とされるが、それを上手くやってのける人材はけして多くない」
「でもポケモンなんて」
「ポケモンを子供向きの平凡なアニメだと思ったら大間違いだぞ。マーチャンダイジングの都合とか、いろいろな横やりとか多いと思うがそれでもかなり核心を突いたクールな作品だ」
「でも、あまりマニアに受けてるようには思えないな」
「だからさ。マニア向けじゃないから、マニアと見られたい非マニアには受けが悪いんだよ。つまり一生懸命マニアのふりをしてアピールする連中には受けが悪い。でも、本当のマニアはマニア向けではない作品に踏み込んでいくものなんだよ。分かるかな?」
「さっぱり分からん」
「分からなくていいよ。本当のマニアというのは、部外者の理解を超越した世界に熱意を持つものだ。だから、本当のマニアは1人1人違う世界を持っていて当たり前だ」
「あれ。1人1人違うとしたらマニア向けのアニメって成立しないんじゃないの?」
「うん。成立しないが、実はマニアと見られたい客層というのがあって、それにアピールするマニア偽装アニメは成立する」
「それもややこしいね」
「ヤマトはそういう偽装アニメではなく、誰でも見ることができる間口の広いアニメなので、客は多いこともあるが、そういうマニア志望の連中とは相性が悪い。これを理解できる君は特別だ、というメッセージを持っていないからだ。しかし、映画とは本来そういうものだ」
「誰がぶらっと入って見てもそれなりに楽しめるのが映画ってことだね」
「そのためにヤマトは山ほどの妥協を含んでいて、重箱の隅を突きたいマニア志望には格好の攻撃材料だ。でも、そんなものは実は本質とは何も関係が無いのだよ」
オマケ §
「何も知らないでぶらっと入った客が予備知識無く見て満足して劇場を出られるのがおそらく映画という商品の1つの理想型だ」
「そうなの?」
「映画は面白くないからといってチャンネルを変えられないからね」
「見るか、途中で出るか、それとも寝るかぐらいしか選択肢が無いね」
「だから、知識量で善し悪しを決めようとする態度とは全くの別者だとも言える」
「それで?」
「実は、おいらは映画館に行く前に見る映画を決めて席をリザーブして時間ぎりぎりに駆け込むことが多いという意味で、ぶらっと型ではないと思っていた」
「そうだね。先に席を確保しているということは、ぶらっと来て映画を見ていく客ではないね」
「でも、それは間違っていたんだ」
「というと?」
「ぶらっと型の本質を、予備知識が無いと位置づけると、おいらもそれに当てはまってしまうんだ」
「ええっ?」
「おいらは、予備知識がほとんど無い状態でほとんどの映画を見に行くからね」
「本当に?」
「さすがに、ヤマト復活編はそれなりに予備知識があったよ」
「そうだろうね」
「でもさ。他の映画はほとんど予備知識が無いまま見ている」
「そうなの?」
「たとえばアイアンマン2を見たけど、どんな作品か前作の知識もないまま見た」
「そうか。そういう意味ではぶらっと型なんだね」
「まず見に行く日を決めて、それから見る映画を決めるわけだからね。たまたまその日に上映している映画から選ぶことになって、見たい映画を見ているのとは少しニュアンスが違う」
「見たい映画というのはあるのでしょう?」
「うん。だからさ、映画館やテレビの宣伝を見て、ちょっと心引かれた映画はあるけどさ。それ以上に情報を集めてから見に行くわけではない」
「宣伝でなんとなく興味を持ったかどうかだけで決める訳か」
「そうだ。しかし、だいたいそれで間違った結果を出していない。つまり、予備知識無く劇場に行くという方針でほとんど問題ない。つまり、楽しめている」
「そのことに意味があるの?」
「あるとも。だから、映画の世界では予備知識が無いことは前提となるノーマルな状態なんだ。知識が多いことを自慢するために見るものじゃない」
「じゃあ、膨大な設定を丸暗記してどんと来いという態度は映画に関しては間違っているわけだね?」
「知っているとかえって楽しめないだろうね」
「じゃあ、丸暗記と情報量で勝負しようというマニアは、映画の世界では映画を上手く見ることができていないおちこぼれということ?」
「うん。実際はそういうことだろう。というか、それはマニアを気取りたい層であって、マニアとは違うだろう」
「本当のマニアというのは、どういう層なんだろう?」
「たぶん、映画をたくさん見ていて、もっとたくさん見たい層だ。映画を見るために予習する層ではない」
「予習はしないの?」
「より厳密に言えば、主演俳優や監督の名前は予習して見る映画を決めるかもしれない。でも、それは設定を細かく覚えることとは異質な世界だ」
「そうか。分かったぞ。だからヤマトは固有名詞の設定が少ないということだね。主力戦艦にバイアブランカ級といった名前も付いていないぐらいだ」
「予習不要ということだ」
「楽でいいね」
「楽でいいぞ。勉強しないでただ見に行けばいいのだからね」
「娯楽とはかくあるべしという感じだね」
「でもそれは別にヤマトの特質ではなく映画そのものが典型的に持っている特質なんだよ」
「すると、不必要に細かい設定が付いてくるガ○ダムの方がむしろ異端ということなんだね」
「うん。ネットや秋葉原では王道に見えるが、映画館に行くとそれがひっくり返ってしまうのだ」
「それはびっくりだね」
「うん、そうだ。びっくりだ。誰がびっくりしているかといって、おいらがびっくりしている。これほど常識がひっくり返るものかと思うぞ」
オマケ2 §
「でもさ。元秋葉原少年として言えば、オタクの街秋葉原というのは後から入り込んできた異質な文化に過ぎないんだぜ」
「元はパソコンの街?」
「いやいや。パソコンもあとから来たに過ぎない」
「じゃあ、何が本来の秋葉原の王道なの?」
「昔の感覚で言えば、表の王道が家電量販店。裏の王道が自作のためのパーツやアマチュア無線等。裏の裏がジャンク屋」
「するとどうなるの?」
「ドライバーでパソコンを組むような行為は自作のうちに入らない。半田こてを持って自分で半田付けしてパーツを取り付けないと。更にジャンク屋で安い基盤を買って、半田付けされたパーツを外して再利用するようになれば癈人認定だ」
「今の萌えキャラに萌え萌えする秋葉原とは別者だね」
「でもさ。これですら、それ以前があるんだぜ」
「え?」
「昔は米軍放出の真空管とか売ってた時代もあるし、そもそも電気店が集まったのは終戦後の話なんだ。それより昔は電気の街ですらないぞ」
「そうなんだ」