「今更なんだけどさ。1Q84の1冊目を読んだよ」
「それで感想は?」
「驚いた」
「どこが?」
「1980年代ぐらいからよく見る、ある種のSF小説とそっくりなんだよ (最近のはぜんぜん知らないけどね)」
「具体的に説明を頼むよ」
「つまりさ。当時こういう特徴を持つ小説が増えてきたんだよ」
- 人間描写を手厚くする
- 特にどろどろした側面を強調して長々と描く
- SF的なアイデア性は前提にあるが、どちらかといえば遠景に引っ込む
- 1冊が厚かったり、場合によっては何冊にも分冊される (かといってシリーズものではない)
「なるほど」
「グレゴリー・ベンフォードとか、そういう傾向が強くて昔読んでたけど、あまり面白くなかった」
「なるほど」
「1Q84は文学であり、SF小説ではないと思ったのに、あまりにもテイストが似すぎていて驚いた」
「つまりどういうこと?」
- 文学として新しいかは私の知るところではない。そういうことはよく知らない
- SF小説として読むことは何ら問題なくできるし、その場合はなんら新しくない
- むしろ典型的な1980年代のよくあるSF小説と同じ臭いがする
- 作中の年代も1980年代であり、古い描写が続いて、古めかしい印象を助長する
「じゃあ、結論としてどうなの?」
「であるから昔となんら変わらない感想に至る」
「というと?」
「一応事情があるから読むには読むが、作品としては冗長すぎる。削れるところは無数にある。苦悩する人間など延々と読まされても面白くない。だって既に自分が苦悩しているのに、他人の苦悩まで読まされて面白いと思う?」
「はははは」
「初期の文庫本というのはせいぜい250ページぐらいでさ。300ページだとかなり厚かったという気がするの。でもさ、そのあと500ページぐらいのが平然といくつも出てきて、しかも(上)とかタイトルに付いてるの」
「2分冊か」
「と思ったら次に出たのは(下)じゃなくて(中)だったりするのだ」
「3分冊か」
「実は、主人公の1人が冗長な部分を削って文章を短くする描写があるんだけど、まさにそれを自分でやれよ、というのが感想。削る必要があると分かっているなら削れよ、ということ」
「既に削ったのかも知れないよ」
「削ったからいい、という発想じゃだめ。読者の体力を考えれば自ずと集中力が維持できる時間も分かるし、そこで一定のボリュームが制約される。体力を全部使い切るマラソンをさせるのではなく、読み終わった時点で余韻に浸る体力を残すボリュームが望ましいな」
「映画だとアバターは長すぎてへとへとになって余韻もへったくれもないってことかな」
「余韻より先にトイレにゴー!」
「ははは」
「映画の比喩はいいと思うぞ。映画館というのは客を回転させる必要がある関係上、あまり長い映画は歓迎されない。客も椅子に座っていられる時間に限界があるしね。だから、かなり思い切って、内容を切り詰める必要がある。だから、2時間を越えちゃう大作もあれば、90分ぐらいで終わる映画も珍しくないが、おおむね2時間ぐらいで横並びになる。そういうシビアな時間との戦いを映画館で見ていると、小説ってのは時間の管理が甘いなと思ってしまう。いくら途中で中断できるとはいえ、ね」
彼氏おいらの事情 §
「で、これを読む君の事情とは何だい?」
「家族が買って家にあった。あと一応ベストセラーになった流行り物だしね。どういうものが流行ったのか一応見ておきたいじゃない?」
「そんな話ばかりだね」
「僕らは1人で生きている訳じゃないからね。世間がどうなっているか、最低限の目配りは必要だろい?」