「最初に書き忘れた話題を書くぞ」
「うん」
「1/4にイナズマイレブンを見たとき、府中の劇場の売店のヤマトコーナーを見た」
「それで? 変化があったの?」
「実はSPACE BATTLESHIP ヤマトのグッズとアニメのヤマトのグッズが混成状態で置かれていた」
「どういうことだろい?」
「客層はどちらもありってことだろう。あくまでアニメがメインだと思っている客層と、初めて見たヤマトがSPACE BATTLESHIP ヤマトで実写が前提という客層、どちらもありということなのだろう」
「それがSPACE BATTLESHIP ヤマトの現状ということなのだね」
「おそらくそうだろう」
「かなり複雑に屈折しているね」
「以上 (山崎努風)」
本題 §
以下はかなり前に書いた話です。
愕然とする話というのはまだありますね。
"SPACE CRUISER YAMATO PERFECT MANUAL 1"という本が手元にあるわけですが。
久々に開いたのは別件で調べたいことがあったのです。それは空振りしましたが。
そこにあった西崎さんのインタビューで、最初にアニメに触れたのが「メルモ」と言っています。元々虫プロ系、手塚系ですから奇異ではありません。
しかし、メルモちゃんとは。
時系列を調べるとこうなります。
ヤマトが1974年。ロッキーチャック/ワンサくんが1973年。トリトン1972年。メルモ1971年。
まさに怒濤の4年間。しかし、どこから来てどこに行こうとしているのかが良く分かる流れです。
つまり、「別の何かに仮託して人間を描く」ことが一貫したポリシーと言えます。(メルモちゃんは人間だが、人間ではない動物にもなれる)
とすれば、そこから逆算すると、ヤマトにとっての「宇宙船、宇宙」とは人間を間接的に描くために用意された大道具に過ぎないわけで、それは「人間を描く都合で用意された書き割り」に過ぎないと思うべきなのかも知れません。
というか、それでOKだぞ。それこそが、おそらくヤマトの正しい解釈だと思うし。
だから、ヤマトは舞台で演じられている一種の演劇であり、舞台が無重力ではない以上、頑張って釣っている以外のシーンは「宇宙でもものが下に落ちて当たり前」と言えます。
最後に §
最後に「ヤマトはパイオニアでなければならない」という決意表明が素晴らしいですね。後ろは見ていません。知ったかぶりマニアに迎合せず、「新しさ」を求めることは重要です。昔読んだ文学入門の本でも、新しいことが文学の条件だと書いてあったしね。うろ覚えで上手く表現できないけれど。
舞台! §
と書いて見直すと、実は「舞台にタッチしていた」という表現が目に飛び込んで目を白黒。なるほど。そうか。そこか。
つまり、ずっと分からなかったミッシングリングがそこです。
ヤマトの発想の原点はそこにあると考えれば、すっきり理解できます。
テレビと映画だけ考えていても見えません。
そこに舞台という要素が入って、やっと見えてきます。
オマケ §
「従って、アニメに1本の線を引いて分類すると、押井守と西崎義展が同じ側に来るのは必然だ」
「どうして?」
「押井守にも、御先祖様万々歳という舞台風のアニメがあるからだ」
「なるほど」
「そして、サクラ大戦とやたらネタの相性が良いのも必然だったのだ」
「どうして?」
「サクラ大戦も舞台化が前提の作品だからだ」
「なるほど」
「そして、ワンサくんは明確に舞台劇風アニメらしい。まさにマッチする」
「なるほど」
「だからヤマトは広いがドラマの舞台はほとんど第1艦橋だ。これも演劇的には当然だ」
「どうして?」
「演劇だと場面転換は大変なんだよ。だから、むしろ同じ場所にいろいろな意味を与えて深めていく」
「それが第1艦橋ってことだね」
「そうだ。だから、土門はいきなり飯炊きから第1艦橋に来る。徐々に這い上がってきたりはしない」
「その発想が演劇的ということだね」
「デスラーの顔も大パネルに投影される。デスラーを出すために場面転換はしない。演劇だったら当然だ。そこで会話を途切れさせる訳にはいかないからね」
「場面転換は会話が終わったあと、ということだね」
オマケ2 §
「しかし、"SPACE CRUISER YAMATO PERFECT MANUAL 1"って凄いな。ロマンアルバムのシリーズなんだけど。ロマンアルバムで最初に出たのもヤマトだ」
「うん」
「でもさ。最初のロマンアルバムには沖田艦、古代守艦の絵が全くなかったのだ」
「なんと」
「でも、"SPACE CRUISER YAMATO PERFECT MANUAL 1"には載ってる。設定画が載ってる。小さくだけど載ってる。しかも、M-21741式宇宙戦艦とかM-21881式宇宙突撃駆逐艦・雪風型とかキャプションに書いてある」
「それは凄いね」
「最初のロマンアルバムから比べると、凄い進歩だ」
「そうだね」
「って、ふと開くと凄いぞ。さらばで、森雪の席変更という設定画が載っているが、おっぱいが1つから2つに変わったことがはっきり見える」
「おっぱいレーダーが明確におっぱい型になったのはさらば以降ってことだね」
「当時から分かっていたが、設定画で確認できる意味は大きい」
「分かっていたの?」
「うん。改造されてないはずのさらばのヤマトなのに、なんでレーダー違うの?って」
「ははは」
「全天周360度を見るには、上半分と下半分の2つの半球が必要だと思えば、2つの方が正解だろう。もっとも、全天球レーダー室との役割の違いが見えにくくなるがさらばにはまだ無いからいいか」
「それはまあいいだろ」
「"SPACE CRUISER YAMATO PERFECT MANUAL 1"には2もあるはずだけど、それは持ってない。でもいつか見たくなったな」
「それもいいかもね」
「しかし、幸せだぞ」
「みてないのに?」
「"SPACE CRUISER YAMATO"と書けただけで満足だ。だって、SPACE BATTLESHIP YAMATOじゃないんだぜ」
「それは懐かしい綴りだね」
「昔はあらゆるヤマトグッズに書いてあった綴りなのにね」
オマケIII §
「でだ。"SPACE CRUISER YAMATO PERFECT MANUAL"は1と2があるらしい。これで完結編までをカバーしている」
「うん」
「それじゃさ。2520、復活編、実写版をまとめた3があってもいいと思わない?」
「ええっ!?」
「松本系が大クロニクルに結実するなら非松本系が"SPACE CRUISER YAMATO PERFECT MANUAL 3"に結実してもいいじゃん」
「でも、そんなの誰が作るの?」
「もちろん出すのは徳間書店しかあり得ない」
「編集は誰がするのさ」
「ヤマト愛に溢れた編集者」
「もう徳間にいなかったら?」
「俺に任せろ。InDesignなら使えるぞ」
「また無茶を言う」
「でも、おまえなんかがやるならオレがやると名乗り出る編集者は多そうだ」
「ああ。いるかもね。みんなヤマトで育ったから」
「下手をすれば、読者よりも多いかも知れない」
「ははは」
宇宙オマケ作戦 §
「そういえば、宇宙犬作戦も作り方が演劇的だ」
「というと?」
「ほとんどの話が田園調布号内部で進行する」
「CG使えば背景なんか簡単に差し替えられるのに、同じセットでの撮影にこだわっているということだね」
「予算の都合もありそうだけどね」
「スター戦争も星トレックも蹴散らし進め、田園調布号」
「そのあたりは、元ネタのスタートレックよりヤマトよりの感じなのかな」
「かもな。まあ見たら面白から些細なことだけど」
オマケが広がる大宇宙 §
「だから、結局のところ、ヤマトを語るためのハードルは、ヤマトの宇宙は宇宙であって宇宙ではないという前提にあるわけだ」
「それは君が考えていたフレーズだね」
「では、宇宙ではない宇宙とは何かと言えば、それは舞台であったわけだ」
「ははは。なるほど」
「宇宙であって宇宙ではない、という言い切りは明快だが、では具体的に何かという対象を示していない。そこに舞台/演劇という言葉が入ってやっと完成だ」
実写版オマケ §
「以上の文章はキネ旬を読むずっと前に書いて寝かせてあったものだ」
「うん」
「で、キネ旬の実写版ヤマト特集で大いに焦った」
「どこで?」
「以下は、キネ旬の山崎監督の言葉からの引用」
- 「たとえば山崎努さんの真剣さにも僕は打たれたし、誰もが本気だった。普通の現場では絶対出てこない台詞の集合体ですからね。日常の延長線上では演技をすることはできないわけです。だって、誰も宇宙に行って闘ったことはないわけだから。銃撃戦のシーンがありますよね。相手は宇宙人だし、現場にはいない。銃も音が出るわけではない。ある意味、『ごっこ』なわけです。ただ、そんなふうに、見えないものに対して彼らが演じているときに、僕は何かが見えたような気がした。みんなのテンションがある段階に達したときに、『ある気配』が立ち上がる。舞台に近いものかもしれませんね。舞台って、いろいろなものをそぎ落としたなかで、何かを見せなきゃいけないじゃないですか。彼らの反応の先にある幻を、力強い幻を、僕は感じたし、見たんです」
「だからさ。これはある意味で当然なんだよ。ヤマトを突き詰めると演劇的な方法論の世界に到達し、そこから帰還してくると逆に演劇的な方法論で新しいヤマトが作られていくわけだ」
「なるほど」
「だからアニメと実写の境界が消失した時代の新しい世代の俳優は、あとから合成される前提で存在しないものを相手に演技をしなければならないが、そのために俳優自身がこれまで以上にクリエイティブに立ち回らねばならない。見えないものが見えねばならない。しかし、それは演劇では当然の要求だったわけだ。あらゆる全てが大道具小道具として用意できない以上はね」
「遠くにいったつもりで回帰しているわけだね」
「だからヤマトという古い作品が、新しい方法論と相性がいいのもある意味で必然だ」