この話題は2020年にもなって今更続くとは思ってもいませんでした。
ですが、続けます。
実は、2008年頃にはなかった手頃な資料が目の前に転がっていることに気づき、この問題に対してもう一歩踏み込めると気付いたので続きを論じます。
Subject: 迷走する史料・仙川駅付近の切通しは開業当初からあったのか昭和2年に掘られたのか?
Keyword: 【▲→川俣晶の縁側→電車好き→日々の京王電鉄】
URL: http://mag.autumn.org/Content.modf?id=20080901005051
名前: とっちー
本文:
つつじヶ丘に住んでいたものですが最近この道路が廃線跡ということを知り訪ねてきまし
た。その結果つつじヶ丘側から道路は40‰での登りなのですが、ほぼ現線路と同じ高さ
のところで70‰、そして都道との近くでは120‰となっていました。これから推定す
ると、70‰120‰の部分は京王線を乗り越える都道に接続するため土盛りしたと推定
されます。そうやって大正11年の仙川を出たところという写真をよく見ると後ろにこ線
橋が見えます。おそらくこれが現在の都道と推定され、従って当初から仙川付近は切通で
あったものと考えられます。推定ばかりで申し訳ありませんが私はそう確信しています。
どっちー説の論点をまとめると以下の3点です。
- 問題の道路にはあとから盛られたと思われる盛り土が存在する
- 写真に見えている線路の上の道路は都道118号である
- 仙川駅は切通にあった
さて、今昔マップ2に重要なことが描かれていました。
今昔マップ2の1917~1924で見ると当該地域はこうなっています。

今昔マップ2の1927~1939で見ると当該地域はこうなっています。

堀割表現が前者にはなく後者にはあることから、仙川駅は前者の時点では地上にあったことが推定できます。
しかしながら、都道118号(当時はまだ都がないので別名称だった思われる)の下を線路が通っていることは同じであり、論点2は正しいと考えられます。
また、線路の跡地が道路に転用されたとき、道路に接続するために盛り土をして勾配を急にしたと考えられ、論点1も正しいと考えられます。
つまり、こういうことでしょう。
少なくとも論点3つのうちの2つは、自分も肯定します。冴えてますね、とっちーさん。