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自分を呼ぶ時は「さん」を付けるなと三志郎に何度も言われていたミツキ。そして、三志郎と共に戦う「戦友」を体験した今、無意識的に三志郎を呼び捨てようとする。その瞬間のミツキの顔には、引っ込み思案の臆病な少年とは違う清々しい何かが宿る。
トーノZERO, THE BELKANアニメ感想家(笑)のアニメ感想を参ります。
今日の妖逆門の感想。
サブタイトル §
第23話 『上位召喚を手に入れろ!』
あらすじ §
上位召還のアイテムを報酬とした登山ゲームが行われます。
途中でミツキと出会った三志郎は、二人で協力して山頂を目指します。
あやかしは危険な存在で気を許してはならないと兄から教えられたミツキは、あやかしを仲間として気を許す三志郎に戸惑います。
最後の敵に対して、三志郎とミツキは協力して戦い、見事に報酬のアイテムを手に入れます。
しかし、それは三志郎が期待した上位召還の撃符ではなく、磨けばそれになる玉でした。
三志郎とミツキが別れの挨拶をしている時、重馬が現れ、雷信とかがりで攻撃してきます。彼は、あやかしの里を滅ぼし、そこにいたあやかしを撃符にして持っていました。
感想 §
ミツキと三志郎は、親友になれる関係でしょう。
ロンドン達と三志郎の関係も、ライバルであり、友であるという親密なものですが、ミツキとの関係はより以上に親密であり、単なる「友」を超えて「親友」と呼べるのだろうと思います。
しかし、そのことは未来の悲劇を暗示します。なぜなら、ミツキが敬愛する兄、重馬が信奉する「あやかし=害悪」説と、三志郎が信奉する「あやかし=仲間」説は決定的に相容れないからです。
そのことに、賢いミツキは既に気付きつつあります。そう、今回の見所は、対撃ではなく、その相容れない2つの強い意志の存在に気付き、驚き、戸惑い、そして兄への裏切りを漠然と意識しつつも、目の前の三志郎との深い絆を求めていくミツキの心理描写にあると言えます。
おそらく、「妖逆門なんてイマイチ……」的な感想をさも訳知り顔で言う人たちは、このような繊細な心理描写こそがこのアニメ妖逆門の見所であるという認識を持つことなく、単なるバトルアニメとして「戦いの面白さ」だけで見ようとしているのではないか……という気がします。もちろん、このアニメ妖逆門の戦いの描写は、「戦闘ゲームアニメ」としては不十分なものに過ぎません。しかし、それで良いのです。なぜなら、戦いとは登場人物達、そしてあやかしの心理を描くための手段であるからです。戦いに向かい合った三志郎、フエ、あやかし、対戦相手の心の問題こそが、最大の見所であり、それを引き出すための戦いに過ぎないからです。
今回の一言 §
山登りに際して、撃符に頼らず、行けるところまでは自分で行く……と考えて自分の足で登っていく三志郎。ここに、三志郎の心の成長を見ることができますね。
余談・実は妖逆門=格闘アニメなのだという発見 §
実は昔から格闘アニメが好きです。なぜかといえば、格闘アニメが描くものは、体でも戦いでもなく、心の問題に行き着くことになるからです。(そうならない格闘アニメは、本質的な意味で格闘アニメではない)
それとは別に、遊戯王デュエルモンスターズに代表されるゲームアニメというジャンルがあると考えて良いでしょう。妖逆門というゲームは、本質的にはデュエルモンスターズと同じく、手持ちのモンスターを戦わせて勝敗を決めるゲームであり、その点ではゲームアニメのように見えます。
ところが、実際には妖逆門のゲーム性とは、せいぜい「レアなあやかしは強い」「召還にはタイムラグがある」「属性に有利不利がある」「上位召還すると強い」といった程度のものであり、到底デュエルモンスターズ(や、MTGなど)と並びうるものではありません。
では、妖逆門の勝敗を決する要素は何かというと、ゲーム性よりも、プレイヤーとあやかしの信頼関係に求められます。つまり、信頼関係を持っていればそれだけ強くなるということです。
それは紛れもなく、勝敗が「心の問題」によって左右されることを意味します。
「心の問題」が勝敗を決する決め手になるというのは、まさに格闘アニメの構造と同じです。それを考えると、なぜ私が妖逆門を好きになったのか、その理由が明確に見えてきた感じがあります。つまり、妖逆門は構造的に格闘アニメと酷似しているということです。